名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語


第九章  大仏建立(二)

 

「えっ。御大典を奉祝して大仏を建立するのですか?」

静岡県知事から愛知県知事に転じて二年強、県会議員でもあり、大型建造物マニアでもある才吉のことは十分に承知している松井茂知事であったが、それにしても大仏建立などと聞いて、大きな眼を見開いて訊き返した。

「そうです。当初は東築地に建て、台風で亡くなった方々の慰霊も兼ねて、と考えたのですが、あそこはやはり水難が怖い」

「それで、知多半島入り口の上野村に?」

「ええ。その村の高台にね。そうすれば、どこからでも拝むことができる。なにせ日本一高い大仏ですから」

「日本一高い? すると、鎌倉や奈良の大仏をしのぐ銅製の?」

「いえ。人造石でつくります」

「へぇ。人造石でねぇ……」

知事は、かたわらのテーブルに広げられている大仏の設計図に改めて眼をやったと、呆れたように才吉の顔を見返した。

この日才吉は、大仏建立の趣意書を携え、知事から直接、寄付金募集の認可を受けるためにやって来たのである。

大仏を建立する理由について才吉は、あれこれ考えた。たとえホンネは聚楽園への人寄せのためであっても、そんなことは口が裂けてもいい出せない。そして、ハタと手を打ったのが、「御大典の奉祝」であった。これなら、だれも「どうして、それが仏像?」と内心、疑問に感じても文句はいえない。

実際にそのころ、国を挙げて奉祝に沸き立っていた。京都で大正天皇の即位式が行われたのが、前年四年の十一月十日。この前後から愛知県内でも、さまざまなお祝いの行事が催されていた。

まず十月三十一日には、名古屋勧業協会主催の共進会が商品陳列館や国技館、東築地水族館跡の三ヵ所で開かれ、才吉も役員のひとりとして、これに参加した。また、十一月八日には鶴舞公園内に建てる記念図書館の地鎮祭、つづいて即位式当日の十日には、同じく鶴舞公園内で名古屋市主催の祝賀式が盛大に挙行され、同月十七日には県の祝賀会がこれにつづいた。

一方、記念の建造物としては、名古屋離宮(名古屋城)や名古屋駅前、広小路本町角にそれぞれ奉祝門が建てられ、市内には連日、豪華な花電車が行き交い、名古屋港では五隻の軍艦が停泊して皇礼砲を撃つなど、祝いのムードを盛り上げた。

そんな雰囲気に浸った直後であったし、趣旨からしても、知事が賛同しないわけにはいかない。

「そうですか。そんな大仏が建立されれば、愛知県の観光名所のひとつになる。いいでしょう、さっそく手続きを取らせることにしましょう。募金が始まれば、私も貧者の一灯を……」

「ははは。なにをおっしゃるのですか。天下の愛知県知事が貧者とは」

こんなやり取りがあったあと、二月七日付で「寄付金募集についての認可」が下りたのであった。

 

こうして松井知事から大仏建立のための寄付金募集の認可が下りたのだが、知事に宛てた趣意書については、漢文調で書かれたものと、通常の文体で記されたものと二通り遺されている。参考のため、以下後者をご披露しよう。(原文の字句の一部修正)

『私は本年六十五歳になります。これまで随分奮闘努力しまして、名古屋市のためになるべき仕事をいたし、後の世に残るべき名物をつくり、市の繁栄を助ける一助にもならんか、と東陽館の建築、水族館の設置等損得を構わず、あらゆることをいたしましたが、前のは火のため、後のは水のためにせっかくの苦心は、あるいは烏有となり、あるいは水泡に帰しました。実に残念でたまりません。

しかし、私は水火の責め苦に遭いましても、私が名古屋のために何か大きな記念物をつくって大名古屋を世界に示したいと思う心は、火にも焼けません。水にも流れません。

ここに一念発起いたしまして、奈良の大仏よりも高さにおいて勝ること一丈二尺(約三・八㍍)の大仏を、別紙のような設計によって建立することといたしました。

私は前後二回の水火の災難に遭い、何分にも資力が足りません。また余生いくばくもなき老生でありますから、市民諸君のご助力を乞わねば、とうてい実現させることができません。

また、このようなことは私の一寄進でいたすよりも、多少にかかわらず市民方全体のご寄進を乞うて仏望を果たすのが、本来の義と存じますから、何卒老生の意中をお汲み取り下さって、大仏建立のご寄進に預かりたいと存じます。

本来なら参堂の上、ご懇請に及ぶべきところですが、ご多用中お邪魔と相なっては、かえって失礼と存じ、書中をもってお願い申し上げます。何卒多少にかかわらず、ご喜捨下されたく、願い上げる次第でございます。

大正五年一月十三日

名古屋市中区末広町三丁目三十五番戸

六十五翁

吉 』

この趣意書には東陽館も水族館も、そしてこんどの大仏建立も、すべて才吉の「名古屋のために何か大きな記念物を」という熱意から発していることが、率直に語られている。また、同書には記載されていないが、漢文調のものには、「御大典の盛事をとこしえに記念し奉り……」とはっきり謳われている。

才吉は、この趣意書の写しと大仏の図面を、それとなくなつの眼に付く居間の隅に置いておいた。口頭で切り出したら、またひと悶着避けられないという理由があったほかに、その方がなつの怒りをいくらかでも抑えることができると計算したからであった。

割烹旅館「聚楽園」の移築だけでも、大変な不興をかっているうえに、どれほどのカネがかかるのか見当もつかない大仏建立の計画を話したら、それこそなつは、半狂乱になりかねない……。

こうして才吉は、しばらくなつのようすをうかがった。どうやらなつは、それらの書類に眼を通した気配はあるがなにもいわない。

(はて、妙だな)

なつよりも、才吉の方が落ち着かなくなった。これほどの大事業を行おうとしているのに、なつがわめかないはずがない。上野村は名古屋市長の管轄外。だから、こんどは知事にでも止めさせるように懇願するつもりなのか。

そんなことを考えているうち、「そうか」と思わず膝を打った。あの趣意書には、知事による寄付金募集の認可書が付けられている。なつは、きっと大仏の建立を寄付金によって行うことを知って、ひとまず胸をなで下ろしたのに違いない。

もしそうなら、一安心だ。堂々と寄付金の募集に走りまわれる。才吉は連日のように、これはと思うところへ陳情に出向いた。新聞広告も出した。喜多福や東陽館、聚楽園の玄関先には「寄付金を募る」という貼り紙もした。

公職関係では県会、市会議員たちをはじめ、才吉が幹部になっている商業会議所や勧業協会の主だった人々。ビジネス関係では、日本缶詰会社や熱田電気軌道会社、喜多福の取引先、果ては義太夫の関係筋など、ありとあらゆるところへ奉加帳をまわし、じきじき参上して頭を下げた。

しかし、そのほとんどは「ほほう。御大典の奉祝のため、日本一の大仏を建立? それはそれはご奇特なことで……」と表面上は感心したり、愕いたりするそぶりはするものの、いざ寄金となると、「すでに奉祝門や花電車の方に精一杯のご報謝をしておりまして……」と、とたんに渋った。

そして陰では「奉祝にことよせて、聚楽園への人寄せのため、大仏なんかを建てるとは」とか、「自分の大建造物好きを満足させる手段じゃないのか」などと、手きびしい批判をする者もいた。さすがに面と向かって口汚くいう者はいなかったが、そうした陰口はいやでもなつの耳に入る。

「あんた。もういい加減になさいよ」

これが大仏の建立について、なつが才吉に初めて発した言葉であった。

「世間の人たちは、ろくなこといってないわよ」

「なんていってるんだ」

おおよその見当はついていたが、才吉は不機嫌そうな顔して訊いた。といって、なつも陰口をそのまんま伝えるわけにいかない。

「奉祝といっても、単なる人寄せのためじゃないかって」

すると、カッとなるとばかり思った才吉が、意外に冷静な顔をして、こうこたえた。

「そういう連中には、いわせておけばいい。人寄せ、大いに結構。これまで東陽館にしろ、水族館にしろ、この名古屋ではだれひとりとして日本一のものに挑戦しようとする太っ腹な人間がいないから、わしが代わってやっているのだ。かつて信長、秀吉、家康の三英傑を出した土地柄なのに、情けない話よ」

 

寄付金集めについて強気だった才吉も、三ヵ月経ち半年過ぎるころになると、さすがに弱気になった。

(世の中は、戦争景気に沸いているのに……)

募金目標の十分の一はおろか、二十分の一にも満たない。これでは、大仏建立の整地にすら着手できない。状況を察してか、山田光吉親方と後藤鍬五郎の両人も、めったに才吉の前に姿を現わさなくなった。

だが、いたずらに手をこまぬいているわけにいけない。才吉は、そろそろ梅雨明けに近づいた七月の中ごろ、光吉親方と鍬五郎、それに棟梁のたけさんの三人を聚楽園に招いた。

「知ってのとおり、募金がさっぱり集まらない。けれども、わしは絶対にあきらめてはおらん。何年かかっても断固やり抜くつもりだ。といって、あんたたち。それまで手持ち無沙汰でも困るだろう。たけさんには三階建てに縮小した南陽館の再建に取りかかってもらっているが、光吉親方と鍬五郎さんには大仏に着手するまで水族館の再建を始めてもらいたい」

「えっ。水族館も?」

光吉親方が、愕いて問い返す。

「そうだ。主任技師にいわせると、ドイツ製の高価な濾過機など、まだまだ使用可能ということだ。せっかく身につけた飼育技術など、捨てるのはいかにも惜しい。そうすれば、親方も鍬五郎さんも、また忙しくなるぞ」

「旦那。いろいろと気を遣っていただいて、申しわけありません」

そういって、ぺこりと頭を下げた光吉親方が鍬五郎の方へ眼を転じてつづけた。

「なーに、わしらのことはなんとしてでも……。それよりも旦那。大仏はまず粘土で十分の一の大きさのものをつくって、それを基本にします。いずれお眼にかけますが、そいつをつくるのは、なんどもなんどもやり直したりして、結構時間がかかりますので……」

「なるほど。でもな、こんな募金の状況では、いつ着工できるか見当がつかん。熱田電気軌道も着々と復旧が進んでいるし、早く水族館を再開して稼ぎたいのだよ」

そういって才吉は、大きな声を上げて笑った。だが三人の耳には、その声がなぜか寂しい思いを無理やり覆い隠そうとしているようにも聞こえ、なんともやるせない気持になった。

事実、才吉はそのとき地団太を踏みたいような口惜しい思いをしていたのだ。

(これほど名古屋のために尽くしたのに)

欧州大戦で大もうけしている連中など、なぜ気前よくポンと基金してくれないのだろう。いっそ財界のサロンである伊藤次郎左衛門らの九日会や、矢田績の撞木町倶楽部、福沢桃介の二葉御殿などに集まる連中に陳情してみるか。いやいや、おとこ才吉。おれを成金上がりみたいに見下げて、歯牙にもかけぬ彼らの力など、死んでも借りるものか……。

そう思い直して才吉は、奉加帳まわしに精を出したのであった。

 

では、才吉が毛ぎらいした当時の財界人セレブたちのサロンとは、いったいどんな状態だったのだろうか。一瞥してみることにしよう。

まずもっとも古く、由緒のあるのが第十四代伊藤次郎左衛門祐昌を中心に、旧徳川家に多少とも恩顧のある在来派のものと、滝、神野・富田家ら近郊派によってつくられた「九日会」のふたつ。これらは発足以来、財界の中に隠然とした影響力を持ち、第一次世界大戦の折に、福沢桃介らの外様派が財界の本山、商業会議所を掌握しようとしたとき、敢然と抵抗して桃介らの野望をくじいたのも、この会であった。

奥田正香が二十年間にわたり、財界に君臨していたころ、九日会との間をそれとなく取り持ったのは、奥田の四天王のひとり、八世鈴木摠兵衛であった。あえて両派の潤滑油役に徹した摠兵衛の存在があったからこそ、商議所もどうにか一本にまとまり、奥田も「法王」としての権威を保つことができたといわれる。

話は少々飛ぶ。昭和の時代を迎えると、さしもの九日会も時流に逆らえず、九年には「九」の文字を合体して「旭会」と改称して再発足をした。けれども排他的、保守的、消極的と批判を受けた体質は容易に変わらず「とかく名古屋の財界は……」となじられるようになったのも、この団体が元凶となった可能性がある。

一方、長らく三井銀行の名古屋支店長を務め、名古屋財界の大久保彦左衛門と異名を取った矢田績の邸宅に集う「撞木町倶楽部」は、識見豊かな矢田を中心に、近くに住む豊田利三郎ら若い財界人や新聞記者たちが集まって、常に談論風発。一ヵ月に一回ここを訪れておれば、時勢に遅れずにすむといわれたほどであった。

この矢田邸は、四六時中開放されていたから在来派でもなく近郊派でもなく、といって福沢桃介らの外様派とは一線を画したい若手実業家が好んで集まるようになった。

その桃介が当時、天下の名女優とうたわれた川上貞奴と同居していた「二葉御殿」には、のちに名鉄の社長になる藍川清成をはじめ兼松、下出民義、岡本桜、後藤新十郎ら有為の人材が頻繁に出入りしていた。邸内の借家には、このほか若き日の電力の鬼、松永安左衛門も住み込み、ときに貞奴座長のもと、素人芝居を愉しんでいた。

しかし、岡本桜は後年、矢田績の紹介で三井から多額の融資を受けるなど、しだいに撞木町倶楽部の方へ傾斜していったという。

以上のほか、性格はやや異なるが、伊藤次郎左衛門祐民の別邸「揚輝荘」や、葵町の富田重助の茶席「啓雲亭」、それに奥田正香の隠居所「撫松庵」のような旧財界人たちのサロンもあった。

才吉は現代風にいえば、こういう特権階級的なセレブたちの集いを、虫酸が走るほどきらった。

(おれは自分の腕一本で、これまできたのだ)

苦労知らずの、ぬくぬくと育った坊ちゃん連中とはわけが違う。そういう強い自負と誇りが、そうさせるのであろう。だから、彼らに寄付金を頼むことなぞ、金輪際できぬ相談であった。



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