名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語


第九章  大仏建立(一)

 

聚楽園に日本一の大仏を建立しようーー山田才吉がそんな途方もない計画を思いついたのは、大正四年(一九一五)

十月の半ばごろ。才吉が、のちに名鉄社長となる藍川清成ら十一人とともに愛知県会議員の定例選挙に当選し、藍川が副議長にも就任したので、その祝いの会を聚楽園で開いたときであった。

当時、愛知電鉄の常務を務めていた藍川は、岐阜県厚見郡小熊村の出身で、いわば才吉とは同郷。才吉の好意を歓んだ藍川は祝宴の冒頭、こんなあいさつをした。

「本日の主催者山田才吉翁、通称山才さんは、わたしと同じ美濃の生んだ逸材であり、翁が名古屋でつぎつぎと建設した東陽館をはじめ、教育水族館、南陽館等々は、いずれも名古屋市民を仰天させる巨大な建造物であると同時に、市民を憩わせる憩いの場でもあり、ひそかにわたしの誇りとしているところでございます。

思うに、翁がこのような志を立てられた背景には、みなさまもご存知の岐阜大仏、これを幼少のころ日夜仰ぎ見ながら過ごした思い出が、その原動力になっているのでは、と拝察するしだいでございます。

翁には、ひきつづき県会議員として一層のご活躍を願うわけでございますが、きっとこれからも名古屋市民、いや愛知県民、いや、あの岐阜大仏さえも眼をまわすような、どでかい仕事をされるものと、確信をするしだいです」

このあいさつに耳を傾けているうち、才吉はふと「そうか。それなら岐阜に負けぬ、でっかい大仏をつくってやろうじゃないか」と、思い立ったのである。

いったん心に決めると、才吉の動きは例によって迅速果敢。翌日さっそく水族館建設のときの職人集団である名古屋のペンキ職の親方、山田光吉と人造石やコンクリートの建造物を手がける後藤鍬五郎のふたりを聚楽園に招いた。

才吉の構想を聞いて、真っ先に眼を丸くしたのは、鍬五郎である。

「な、なんですって。人造石かコンクリートで奈良の大仏よりでっかい大仏を、この聚楽園につくるのですか」

「そうだよ。水族館をつくるとき、あんたの腕前を見せてもらったが、あんたなら間違いなくできる」

「と、おっしゃっても、日本ではまだそんなのをつくった話を聞いたことがない」

「だから、やり甲斐があるじゃないか」

ふたりのやり取りを聞いていた光吉親方が口をはさんだ。

「で、その大仏さんですが、岐阜のはたしか乾漆製の釈迦如来。奈良のは金銅座像で毘盧舎那仏。旦那はどちらにするお考えで?」

「そのどちらでもなく、わしは俗に美男におわすという、鎌倉の大仏にそっくりなものを考えておる。あれは金銅だが、阿弥陀如来の露座と思ってもらえばいい」

「そんなにでっかい大仏を建立しようと旦那が思いつかれたのは、どういう動機からで?」

水族館の工事以来すっかり才吉とねんごろになった山田光吉親方が無遠慮に訊く。

「よう訊いてくれた。わしはな。あんたも知ってのとおり日本一の大料亭と自慢のできる東陽館も南陽館も、それに水族館も、みんな火事やら台風でなくしてしまった。けれどわしは、お世話になった当地の方々のために『さすが名古屋の人は、立派なものをつくる』といわれるような建造物をなんとしても遺したいのだ。東陽館には、あの伊藤博文公や尾崎咢堂翁も、わざわざ見に来られ、びっくりされたものだ」

そこまで一気にまくし立て、一息入れると、才吉は唖然としたまま聞き入っているふたりの顔を交互に見くらべながら、言葉を継いだ。

「ささ、そこでだ。こんどばかりは、どんな災害にもびくともしない建物をつくりたい」

「なるほど。それで大仏を……」

鍬五郎がさも合点をした、というように相づちを打つ。

「わしが惚れ込んでいる鎌倉の大仏も、初めのころには奈良の東大寺のような大仏殿があったけど、台風や大津波で二度も倒れたり、流されてしまった。だが大仏さまだけはでんと坐ったまま今日まで無事でいらっしゃる」

「そういわれれば、そうですなぁ。となると、鎌倉のような露座のをお考えで」

こんどは、光吉親方が尋ねる。

「そうだ。小高い丘の上に建てるから、どんな方角からも拝められて、かえって都合がええ」

「それで、人造石かコンクリートのを?」

「金銅製にするとええが、そんな資金がない」

それを聞いて、鍬五郎が身を乗り出した。

「それでしたら、コンクリートよりも人造石にした方がいい。名古屋港の改修も当初はその工法にして予算を節約したけれど、コンクリートと変わらぬ強度があるそうな」

「そういえば、巡航博覧会船のロセッタ丸を名古屋港へ水先案内し、港の拡張に貢献した例の岡田助七郎さんも、そんなことをいっていたなぁ」

「旦那。水族館でも一部に使いましたが、あの台風のときにもびくともしなかった」

「そうだった。よし、それでいこう」

ということになった。

余談だが、この人造石というのは天保十一年(一八四〇)に三河国北大浜村(現碧南市)に生まれた服部長七という左官が考案した工法。一口でいえば、石灰に種土という花崗岩が風化して土壌化したものを混ぜ、水で固練りしたものを、板や木づちでたたき固めたもの。

コンクリート以前の画期的な土木工法として注目され、四日市や名古屋港の築港、明治用水の頭首工のほか新田開発や堤防工事など、明治期に全国的な規模で採用された。石のように堅牢で、耐水性に優れ、現在でも明治用水など一部に遺構がある。(明治用水緑道と水利用協議会事務長・田中覚氏ほかの文書から)

 

その後、三人は工事の概略について、いろいろ話し合った。といっても、山田光吉親方と後藤鍬五郎は、もっぱら才吉の意向をうかがう形となったが、それによって改めて分かったことは、光吉親方がどこで勉強をしたのか、うわさどおり仏像にかけては、仏師はだしの知識を持っていることであった。

心強く思った才吉は、親方に向かって注文を出した。

「わしは若いころ、東京での修業を終えて郷里へ帰る途中、鎌倉の大仏を拝観してな。以来あの大仏の虜よ。大きさは一まわりでっかいものをつくるとして、できればそっくりなのをつくりたい」

「分かりました。といっても、なにぶん初めて手がける大仕事。ここにいる鍬五郎さんなら、大丈夫と思いますが……」

「そうかもしれない。よし、遠慮はいらない。あすからでもいい。ふたりで鎌倉へ出かけて得心がいくまで大仏を観てくるといい。それに、日本一大きい大仏をつくるとなると、奈良の大仏も見ておく必要がある。設計図を描くのはそれからで結構」

まさか資金のやりくりまで、ふたりに相談するわけにいかない。この日は大要こんなことで別れた。

さて、その資金の調達方法について、その後才吉はあれこれと思案をした。大仏の建立を思いついた当初は、なるべく安上がりにというねらいから、別名「籠大仏」ともいわれる岐阜大仏の方式を考えた。

しかし、これはイチョウの大木を真柱にして木材で骨格を組み、竹材を編んで仏像の形をつくる。その上に粘土を塗り、一切経などを糊張りして漆を施し、さらに金箔を置くもの。資金面の事情などがあって、完成まで実に三十八年もの歳月を要したという。

しかし風雨に弱いから、この方式で奈良をしのぐ大仏をつくるとなると、それよりも壮大な堂宇を建設せねばならず、とても不可能である。

それでは人造石を使い、露座で安上がりなものにといっても、技術的に初めての挑戦であり、なにしろ巨大なものだから、それなりのカネと時間が必要である。

東大寺の大仏のように、聖武天皇の詔による国家挙げての大事業でもなく、鎌倉の大仏のごとく一僧侶の発願、勧進でありながら、鎌倉幕府のような権力の庇護があるわけでもない。あくまで自分個人の力で成し遂げねばならないのだ。けれども、水族館や完成まぎわの南陽館を失った痛手はあまりにも大きく、昔日の財力はとうにない。

となると、岐阜大仏のように広く浄財を募るのが、自然であろう。幸い、この地方は欧州大戦の勃発によって、毛織物業をはじめ軍需関連企業が好景気に沸いている。高岳製作所や名古屋造船所、豊田紡績や御幸毛織、浅野木工所など、つぎつぎ新しい企業も誕生している。きっと、浄財もたくさん集まるに違いない……。

そうこうするうち、大正五年(一九一六)の新年を迎えた。正月休みも返上して大仏の設計に没頭したのだろう、山田光吉親方と後藤鍬五郎のふたりが、新年のあいさつを兼ねて末広町の才吉の本宅を訪れたのは、まだ松の内の明けぬ六日のことであった。

ふたりの来訪を聞くと才吉は、すぐさま先客にお引取りを願い、お屠蘇の祝いもそこそこに、さっそく打ち合わせに入った。

テーブルの上に開かれた図面をためつすがめつ眺めていた才吉が、相好をくずしていった。

「結構、結構。よくできた。どっしりと重量感があって、しかも鎌倉の大仏さんよりも美男。ふふふ。これなら大勢の婦人の参拝客も呼べそうだな。……ところで、座高は六十二尺(一八・七九b、以下b表示)となっているが、もちろん日本一の高さに間違いなかろうな」

「旦那。そこんところは、念入りに調べてあります」

といって、光吉親方がやおら懐からメモ書きを取り出し、老眼鏡を持ち上げて読み上げた。

「鎌倉が一一・三五b、岐阜が一三・六三b、それに奈良が一四・九八b。奈良よりも三・八一bも高い」

「そうか、そうか。それなら結構」

満足そうにうなずく才吉に向かって、こんどは鍬五郎が鼻先をこすりながら、付け加えた。

「旦那。ちなみにいっておきますがね。実は奈良、鎌倉に加えて、われこそは三大大仏と名乗っているところが、ほかに二ヵ所ありましてね」

「ほほう。二ヵ所も? そいつは知らなかったな。それはどこかね」

「ひとつは、越中の高岡大仏。なんでも延享二年(一七四五)に極楽寺の上人が木造金色の大仏を建立したのが始まりで、その後文政四年(一八二一)に焼失し、天保十二年(一八四一)に再建されたけれど、これも明治三十三年(一九〇〇)に焼け落ちましてね。明治四十年に松木宗左衛門という篤信家の手で銅製の大仏がつくられている。この座高が七・四三bとか」

「そんなに高くはないな。で、あとひとつは?」

「兵庫の和田岬の近く、平清盛ゆかりの宝積山能福寺に建立されている兵庫大仏。明治二十三年に豪商の南条荘兵衛によって寄進されたもので、その座高は一一b」

「そうか。それもたいしたことはない」

ホッとしたようにいったあと、才吉が笑った、

「和田岬といえば、例の教育水族館を建てる前に、みんなで和田岬水族館を見に行ったことがあったが、あのときついでに兵庫大仏も見物してくればよかったな」

(注=高岡大仏は、明治四十年に造営に着手されてから二十余年の歳月を経て、昭和八年に完成。同五十五年に十一b下がった現在地に移転、補修されている。一方、兵庫大仏は第二次大戦中の昭和十九年に金属回収で国に寄付されたが、平成三年に市民と企業の協賛によって再建されている)



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