名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語


第五章  有為転変(二)

 

 しかし、好事魔多し。事業に政財界活動に順風満帆、行くところ敵なしの人生を謳歌し始めた才吉に、思いもよらぬ災禍が降りかかってきたのである。

明治三十六年の暑さ真っ盛りの八月十三日。この年三月から大阪・天王寺公園で開かれた第五回内国勧業博において守口大根味醂粕漬がこんどは二等賞の栄誉に輝いたのを機に、全国的な販売を展開しようと準備を進めていた矢先のことであった。

 喜多福の帳場で売上げ状況に目を通し、商議所へ顔を出すため腰を上げかけた午後二時半ころ。けたたましい半鐘の音とともに、「火事だ、火事だっ!」という叫び声が表通りに上がった。

 つづいて「見ろ。前津の方に黒煙が上がっている」という通行人らしい声。前津と聞いて才吉は、一瞬いやな胸騒ぎを覚え、表へ飛び出した。

 店員や通行人たちが、わいわい指差す彼方を見ると、たしかに市の東南、前津小林の上空に不気味な黒煙がもうもうと立ち上っている。

「おい、人力車。出かけるぞ!」

 才吉は、路上に待たせてある人力車の車夫を呼びつけ、飛び乗った。

「東陽館へ早駆けしてくれ」

「えっ、東陽館? あそこの火事ですか」

「いや、まだ分からん。とにかく急げ!」

 才吉は後ろでおろおろしている番頭らに目もくれず、車夫を急がせた。台風の前ぶれか、朝からかなり強い風は吹いているが、夏の真っ盛りとあって、とにかく暑い。車夫は頭から肩から背中から、全身に流れる汗でずぶ濡れになりながら、懸命に走った。

(どうか東陽館でありませんように)

 この風の中の火事であったら、どんな建物もひとたまりもない。現に一ヵ月前の七月九日、旭廓の大火で十八軒の廓がまたたく間に焼失し、多数の死傷者を出したときも、同じ強風下だった。

 才吉は車の中で必死に祈った。神にでも仏にでも、なんにでもすがりたい気持であった。

 栄に近づくにつれ、野次馬でごった返し、人力車では通れなくなった。車夫の息も上がっている。

「これから先は、おれひとりで行く」

 車夫に足代をはずむと才吉は、着物の裾をからげ、手提げかばんを小脇に抱え直して、黒煙の上がる前津小林へ向け、一散に駆け出した。

「火事は東陽館だ」「本館は火の海らしい」

 そんな声を耳にし、額から目に流れ込む汗を手で拭いながら才吉は、避難して来る近在の人たちや野次馬を掻き分け、無我夢中で駆けた。

 やがて、きな臭いにおいに混じって細かい火の粉が渦のように舞う地点まで来ると、警備の警官に阻止された。

「これから先、消防以外は立ち入り禁止だっ!」

「お、おれはこの東陽館の社長だっ」

 才吉のその一言で、警官は一瞬ひるんだ。が、

「だれであろうと、これ以上近寄るのは危険だ」

 と、才吉の腕をつかんだ。

「ええい。邪魔立てするなっ」

 警官の手を振り払い、表門の際まで駆け寄った。と、猛火が引き起こすのか、一陣の熱風が才吉を襲い、あやうくその場に転倒しかけた。

「あっ、社長。大丈夫ですか!」

 制止されている人垣の中から飛び出て、とっさに才吉の身体を抱き上げたのは、総料理長を務める木山雄介であった。

「おっ、雄介か。どうだ、建物は」

「残念です。ご覧のように、手の施しようもありません」

 才吉が吹きつける黒煙に咽びながら、改めて前方に目をやると、すでに本館は焼け落ちて、二、三本の焼けただれた柱がくすぶって立ち、桧の太い門柱にも火が移って、紅蓮の炎を吹き上げている。

 構内のあちこちを跳びまわる消防士。だが中には、手にしたホースから一滴の水も出ず、むなしく立ちすくんでいる者もいる。この分では、庭内に点在する小亭も全滅だ。

「お客はどうした? 従業員は?」

 せきこんで訊ねる才吉に雄介がこたえる。

「ご安心下さい。いまのところ全員が無事です」

「そうか。そいつはよかった。で、近所への類焼は?」

「分かりません。しかし、この火勢では……」

 雄介は唇をかみ、真っ黒になった顔をゆがめた。

 ――それは、真夏の真っ昼間に繰り広げられた目を覆おうばかりの惨劇であった。

 その後、名古屋署の調べによると、火元は本館の二階西南隅の桧皮葺ひさしの付近。折からの東南の風にあおられて、燃え上がった火炎の勢いすさまじく、さしもの大廈(たいか)(こう)(ろう)も一時間と経たぬうちに焼け落ちてしまった。

 出火と同時に市内各所から消防が駆けつけた。だが、あいにく二週間つづいた好天によって空気が乾燥しきっている上に、水の便がきわめて悪く、庭内の干上がりかけた池から泥水をくみ出すのがやっとのありさまだった。

 こうした悪条件に加え、真っ昼間とあって付近の田野は野次馬でごった返し、消防活動や避難する人々の著しい妨げとなった。庭内の五十八の小亭はほとんど焼失。近隣への類焼は二十数戸に及んだ。

 幸いだったのは当日、本館の大広間に十五、六人の客がおり、昼寝中の従業員もいたが、全員無事に避難し、けが人もほとんどなかったことである。

 この火事で東陽館の株は、一株四十銭だったのが、一挙に五、六銭まで暴落した。

 

火事場の余燼がくすぶる中、才吉は取るものも取りあえず類焼した近隣の家の人々に陳謝し、お見舞いをしてまわった。そのほとんどは全焼だったが、幸い大事な家具類は持ち出されていた。

その後消防署、警察、市長をはじめ市の幹部らのもとを訪れ、お詫びと謝礼を述べた。出火と同時に、かれらは直々現場に急行して陣頭指揮をしてくれたのだ。

 名古屋署は東陽館の管理人や木山総料理長のほか当日の料理人二人、酌婦九人を連日喚問して取り調べた。しかし午後二時半という時間帯には火を扱っておらず、また客にもとくに料理を出していないので、原因が特定できず、不審火の疑いが強くなった。

 この火事で、数多くの者がショックを受けたが、中でも総建築監督、たけさんこと武部慎吾のしょげようは、さすがの才吉も慰めの言葉を失うほどであった。

「神社仏閣の修理の仕事は、たくさん手がけてきましたが東陽館のように豪気な新築の仕事は、おそらくこれが最後と、全身全霊やらせていただきました。が、こんな結果になって……」

 焼け跡で咽喉を詰まらせながら、ぽつりぽつりと語る一語一語が衝撃の大きさを物語っていた。

「なーに、たけさん。そんなに気を落とさんでいい。わしはな、この焼け跡の整理がすんだら、前のようにはいかないかもしれんが、また名古屋の人たちに喜ばれる娯楽施設

を再建しようと思っとるんだ」

「えっ。東陽館の再建を?」

「そうだ。いや、そればかりでなく、これからうんと稼いで、南陽館でも北陽館でも、つぎつぎおっ建ててやる。この山才は不撓不屈。これしきのことで、へこたれん。たけさん。そのときゃぁ、また存分に腕をふるってくれよ」

 そういって、たけさんの節くれだった手を握った。

「大将にそういっていただくと……」

 たけさんは、握られた手にもう一方の手を重ねて、声をふるわせた。

一方、女房のなつは、そんな具合にはいかなかった。一面、焼け野原となった中にたたずんで、しばらく呆然としていたが、そのうち顔を手で覆い、わっと泣き出し、その場にしゃがみこんでしまった。養女のたかが寄り添って、なにか声をかけているようだったが、なつはまるで幼児がいやいやをするように首をふって、嗚咽をつづけた。

「なつ。これしきのこと、大丈夫だ。幸い、ひとりのけが人も出なかったし、土地まで消えてなくなってしまったわけでもない。なーに。すぐ立ち直ってみせる」

 嗚咽が収まるのを待って、才吉が優しくなだめた。すると、なつは涙で真っ赤になった目をつり上げ、才吉が愕くほど大きな声でいい返した。

「だって、あんた。一銭の火災保険も掛けてなかったんじゃないの」

 いわれてみれば、確かにそのとおりだった。

(火災保険にさえ入っておれば……)

 才吉は、管理室の跡に焼けただれて突っ立っている大金庫に手をふれ、なんど歯ぎしりをしたことか。

「あんた。火災保険に入ってなくていいの」

 なつから再三念押しをされるたびに才吉は生返事をしたまま、とうとう最悪の日を迎えたのだった。それかあらぬか、なつはまた心臓神経症らしい病をぶり返し、寝たり起きたりの日をつづけるようになってしまった。

実は、三十二年四月から明治、日本火災、日本酒造、横浜、東京の五社とそれぞれ二ヵ年間の火災保険契約を結び、各社に六千円ずつ計六万円を支払った期間があった。しかし、契約更新のときに利率上のトラブルが起き、その後更新の手続きをしないままになっていたのである。

しかも、四年前の夏の夜、余興の花火が本館の屋根に落下して出火騒ぎとなったさい、消火器ですぐさま消し止めたいきさつもあって社員全員、火事への警戒心が薄れていたのも事実であった。

それとは別に、才吉はこの火事の被災者に、どのような補償をしたらよいか、思い悩む日々がつづいた。類焼した家には、むろんできる限りの誠意を見せ、家を再建できるぐらいのお金を出さねばならないだろう。だが、問題は暴落した株を抱えたままの株主たちである。

それが株の宿命、といってしまえばそれまでだが、才吉の気質が許さなかった。いまでもお守りとして財布の中にたたんで入れ、肌身離さず持っている亡き母親の手紙「サイキチ ヒトニハ ケッシテ メイワクヲカケルナ」の紙片の文言が、頭にこびりついて離れない。

(暴落前の価格で買い取ろう)

そう決断したのは、火事から一週間後のことであった。

才吉はさっそく株式会社東陽館の取締役会を開き、臨時株主総会でつぎのような会社解散の同意を取り付けることを決めた。

『発行株式のすべては、山田才吉が一株当たり四十銭で買い取り、以後東陽館は同人の個人経営とする』

取締役会といっても、ほとんどは才吉の身内のような者ばかり。才吉の英断にみんな愕いたが、持株の損失を免れるわけだから、だれひとり反対する者はいなかった。

「商議所からたくさんのお見舞いをいただき、ありがとうございました」

会頭室を訪れ、丁寧に頭を下げる才吉に、奥田正香は「いやいや」と手をふりながら珍しく席から立ち上がって、応接用の椅子をすすめた。そして、火事のありさまなど聞こうともせず、

「うわさによると、東陽館を再建するそうだな」 

と、ずばり訊ねてきた。地獄耳の奥田、もう耳に入っているらしい。 

「建物は全滅でしたが、庭園は残っていますので」

「さすが山才君。もう再起を図るとはねえ」

と、奥田はいったん感嘆したそぶりを見せたうえ、

「ところで、ロシアとは一戦交えることになるのかね」

 無遠慮に才吉の顔を見据え、さりげなく探りを入れてきた。

「さぁ。どういうことになりますか……」

「全国各地に軍用缶詰を納入してるそうじゃないか。新聞社も経営しているし、君ならその方面の情報も入ると思うのだが……」

 そんな缶詰の情報まで手に入れているとは。才吉は愕いたが、軍事に関することは、たとえ相手が上司に当たる会頭でも、うかつに返事はできない。あいまいな返事をしてその場を離れた。

 実はそのころ、坂井水産局長の指示で、第三師団ばかりでなく大阪、兵庫、門司、宇品の各糧秣廠や倉庫に牛肉、イワシ油漬、福神漬等の缶詰を納入し始めていたのだ。むろんその理由について陸軍も水産局も、いっさい口にするはずはない。

けれども、才吉にはそれがどのような事情によるのか、察しはついている。だが、それよりも才吉は奥田のしたたかさ、狡猾さに舌を巻いた。

というのも、中京新報記者の情報によると、奥田の経営する日本車輌製造株式会社は、昨今、鉄道院からかなりの数の客貨車を受注し、熱田東町にある工場は、昼夜兼行の操業をしているという。これは多分、才吉の工場が軍から大量の缶詰を受注しているのと、同様の理由によるものであろう。奥田は、それをひた隠しにし、とぼけた顔をして逆に才吉に探りを入れてきているのだ。

日本車輌製造は、明治二十九年九月、折からの鉄道建設ラッシュに目をつけた奥田が白石半助、服部小十郎らと語らって袋町に設立した会社である。

 ところが、これとほぼ時を同じくして、「反奥田派」の滝兵右衛門や半田の小栗富太郎らが古渡町に鉄道車輌製造所を設け、日本車輌と食うか食われるかの烈しい死闘を展開した結果、最後に後れを取った鉄道車輌の方は、陸軍省に買収される羽目となったのは、既述したとおりである。

(そうか、日本車輌も特需をねらっているのか……)

 才吉は、商議所からの帰り道、「業種は違っても負けておれぬ」と、戦意を新たにしたのであった。



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