名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語


第五章  有為転変(一)

 

明治三十四年(一九〇一)四月二十五日。それは才吉にとって、その二年前に初当選した県会議員のときと並んで人生の大きな節目となる日であった。名古屋商業会議所の会員に晴れて選出されたのである。

県会議員と商議所会員。いってみれば、政治家として実業家として、その双方に強力な足場を築いたわけであり、これに新聞社社長としての地位を加えれば、名古屋における一流人士の仲間入りを果たしたといえよう。しかも、商議所では、就任早々に商業会議所法発布に伴う各種の準備をする七人の委員にも選ばれたのだ。

その顔ぶれを見ると、のちに名古屋鉄道社長や商議所会頭を務める上遠野(かどの)富之助、市会議長となる服部小十郎、名古屋生命保険の創設に携わった白石半助など、当時の財界では錚々とした人物が含まれており、才吉はどれほど誇りと遣り甲斐を感じたことであろう。

いや、それにもまして才吉を有頂天にしたのは名古屋の澁澤栄一と称され、この人の息のかからぬ会社はないとまでいわれた会頭の奥田正香の采配ぶりをじかに学べる歓びであった。人を人とも思わぬ傲慢不遜な男と批判されるがおれならうまく御してやるーー才吉には自信があった。

その奥田に初当選のあいさつに行ったとき、会頭室の椅子にふんぞり返って、両切りタバコをくゆらしていた奥田が、じろりと才吉を見ていった。

「おお、君が缶詰の製造販売をやっている山田才吉君か。ちかごろは軍隊にも製品を納入して、えらく鼻息が荒いって評判じゃないか」

「ええ。おかげさまで」

「おれもいろんな事業をやってみたいと思っておるが、缶詰だけは手が出せん」

 そういって、脂ぎった顔に薄笑いを浮かべた。武士上がりのせいか着物を愛用し、洋式のデスクに腰を下ろした格好は、少々珍妙である。

(なにをいう。味噌たまりで財を成したくせに)

 才吉は腹の中で舌を出した。が、そんな素振りはおくびにも出さず、「若輩ですので、以後よろしくお引き回しのほどを……」と頭を下げた。すると奥田は、タバコの火をゆっくり揉み消しながら、さらに水を向けてきた。

「そうそう。君は中京新報の社長もやっているそうだね。どうだね、そっちの方は」

「いえ。こちらの経営はなかなか難しくて。なにしろ、新聞ばかりは軍隊へ大量に収めるわけにはいけませんし」

「ははは、そりゃそうだ。新聞の経営もどうやら、おれには手が出せんようだな」

 こんどは高笑いして奥田は、「君はなかなか面白そうな男だ。来月には運輸副部長になってもらいたいと思っている。これからいろいろと面倒をかけるが、よろしく頼む」といって席を立った。

「えっ。運輸副部長に?」

 驚いて聞き返す才吉になにも答えず、奥田は太った身体を揺らしながら部屋を出て行った。

当時の会議所は、会頭に奥田正香、副会頭に岡谷惣助、鈴木兵衛の二人がつづき、その下に庶務、会計、商業、工業、理財、運輸の六部長がいた。部長には、それぞれひとりずつ副部長が付くから、総計十五人の主要幹部で運営されていた。

 部長といっても、ほとんどはお飾り。実質的に取り仕切るのは副部長だから、新会員になったばかりの才吉が、いきなり物資、資材の運輸関係を差配する要職に就けられたのは大抜擢といえよう。

(よし。いずれは部長になってやる)

 あまりポストにこだわらぬ才吉だが、どうせやるならさらに上をねらいたい。会議所の中には、岐阜県出身のおれを余所者とか、板前上がりの成金だとか白い目で見る輩がいる。だが、そんな差別に負けはせぬ。

部長となれば、むろん公私の区別は峻別しなければならないが、商売の上でも事業展開の上でも、有利になることは請け合いだ。このところ軌道に乗ってきた鉄道網の整備や、名古屋港の浚渫(しゅんせつ)等々、運輸関係の課題は山積しているそれだけに腕のふるいようがあるってもんだ。

(五二会と合わせ、この名古屋のために働いてやる)

 才吉は、ますます闘志を燃やした。そして、寝る間も惜しんで走りまわった。

「あんた。また過労でぶっ倒れるわよ」

 なつの心配をよそに星をいただいて起き、星をいただいて帰宅する毎日がつづいた。こんな激務がたたってか、その半年後に仕事先で倒れ、入院生活を送る破目となった。しかし、それも一週間足らずで快癒すると、前にも増して鉄人ぶりを発揮し、忙しくなればなるほど元気になる。

「お父さんたら、まるで仕事が身体の滋養になっているみたい」

 養女のたかがそういって、なつを苦笑させたのも、このころである。

 そんな折も折、多忙にさらに輪をかける大きな仕事が舞い込んできた。それは、農商務省の坂井水産局長から「知多の豊浜港に大量に水揚げされるマイワシを油漬缶詰にして、海外へ輸出する会社を設立しないか」という提案であった。

 才吉が詳細を質すと、坂井局長は計画書類を繰りながら「名称は日本缶詰合資会社とし、当面の資本金は二十万円。本店を名古屋の栄町に置き、工場は豊浜に建設する」と説明した。

 そして急に声をひそめ、「くれぐれもここだけの話だが、状況を見て、さらに第二工場の増設も考えている。どこか適地を探しておいてくれ」といった。

 才吉は内心、快哉を叫びたい気持になった。数年前、守口大根味醂粕漬が内国勧業博覧会で有功二等賞を獲得したさい、あいさつに行った第三師団の糧秣担当、長谷大佐から「イワシをうまく食える缶詰を開発してくれ」と要請されたことを思い出したからだ。

(この背後には軍部がいる)

 陸軍は、いずれロシアとの戦争が不可避なことを想定して着々と準備を進めており、イワシの油漬缶詰もその一環に違いない。

 幸いイワシの缶詰は、その後改良を重ね、長谷大佐から「これなら結構」と太鼓判をもらっている。加えて水産局長からの勧めがあれば、まさに大船に乗ったようなもの。

「ぜひやらせていただきます」

 才吉は、二つ返事で引き受けた。

 こうしてスタートを切った日本缶詰合資会社は、奥田会頭が羨望したように、その後独占企業的な有利さを活かして業績を伸ばし、翌明治三十六年には株式会社に組織替えを行い、資本金を五十万円に倍増した。さらに、才吉の構想に基づいて、三重県志摩郡桃取村(現鳥羽市)に第二工場を増設し、万全の生産体制を整えたのだった。



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