名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語


第二章 基盤固め (二)

 侑輔が語ったように、県も缶詰の製造については「これを新しい産業に育てていきたい」という思惑があって、なにくれとなく気配りをしてくれた。地元の伊藤、名古屋両銀行ともに関心を持っているようすだ。

これに力を得た才吉は、翌十七年三月から操業を開始する目標を掲げ、準備に跳びまわった。大好きな義太夫の稽古も月二回に減らした。

 工場の総責任者には、かねての思惑どおり忠則を充てた。そして機械操作や調理、販売、事務関係の要員として新たに十二人を採用した。

一方、喜多福を取り仕切る番頭には御器所村で沢庵漬の元締め格として腕をふるっていた鈴木米次郎を口説き落とした。沢庵漬と守口漬、漬け方はずいぶんと異なる。けれども、才吉はむしろそれより米次郎の商才をかった。当面、缶詰工場の稼働に全精力をつぎ込むためには、喜多福を任せられる人材が必要だったからである。

そして工場の建築は、才吉お気に入りの棟梁、たけさんこと建部慎吾に託した。たけさんの誇りは、先祖が名古屋で由緒ある宮大工の元締め、三代目伊藤平左衛門の弟子となって、熱田神宮の修理を行う(みや)番匠(ばんじょう)を務めていたこと。

それかあらぬか、喜多福の改築をさせたときのたけさんの仕事ぶりは、まことに手堅く鮮やかで、才吉を感服させた。改築といっても、さまざまだが喜多福の場合は、前の乾物屋の建物で使えそうな柱類は、なるべく活用するやり方だったから、むしろ新築よりも手間隙がかかった。

それをたけさんは、弟子たちをてきぱき指揮して期日より二週間も早く完成させた。このときから才吉は「いずれなにか建築をするときには、この棟梁に任そう」と心に決めていたのである。

こうして、工場の人と建物の目鼻はついた。残る問題は土地をどこに求め、資金をどう集めるかだ。北海道の石狩缶詰所は、石狩川の河口近くの広大な土地に建設されているという。新鮮な魚介類を用い、大量の水を排出するからそうした立地条件に合ったところを探す必要がある。

(となると、やはり木曽川の河口あたりか)

ねらいは定めても、お誂えどおりの場所が見つかるかどうか。才吉は、思い悩む夜がつづいた。

そんなころ、侑輔が県庁の仕事の帰りに、ひょっこり店へ顔を出した。侑輔は、国貞廉平県令の懐刀といわれるだけあって、庁内でも羽ぶりがいいようだ。が、なにせ、お堅い仕事。最近では大須界隈に立ち寄って、適当に息抜きをしているらしい。

才吉にとっては、官・政界の情報を得る大切な若者だから、おろそかにできない。

「あすはお役所も休みのはず。どうです、今夜あたりぱっと」

 旭郭の方角へ指を差す才吉に向かって、侑輔は壁に泥でも塗るように手を左右にふっていった。

「と、とんでもない。今夜はこれから梅花楼で久しぶりに親父といっしょに食事をすることに」

「梅花楼で加盛さんと? そいつはちょうどいい。お邪魔でなければ、ぜひお供させて下さい。あの店はその昔、わたしが板前修業をしたことがあってね。店の旦那の呉兵衛さんには、長らくご無沙汰していますので……」

 という仕儀になった。

 いわゆる久闊を叙するというやつ。才吉は二人の旦那とそろって酒を酌み交わすのは、数年ぶりとあって話も弾み、盃も進む。そのうち、商売の話になって加盛がぼやいた。

「このところ、欧米向けに陶磁器の輸出が伸びてありがたいことだが、近くに熱田港がありながら、わざわざ荷を四日市くんだりまで運んで積み出すなんて、不便で不経済きわまりない。なんとかならないものかね」

「熱田は遠浅だから、大きな船は出入りできない。港というより渡船所だからな」

 呉兵衛が眉をひそめて、あいづちを打つ。

「そんならそれ、浚渫(しゅんせつ)とかいって海の底を掘れば済むことやないか」

「その件ですが、実は先だって名古屋区長の吉田禄在さんが井上馨外務卿や、山県有朋内務卿に名古屋港の必要性を説いて、現地視察をしてもらったんです」

 侑輔が遠慮っぽく口をはさんだ。

「それで、結果は?」息をのんで才吉が訊ねる。

「ご両所とも、港湾造成にふさわしくない地形だと」

「そんな馬鹿な。この間も新聞に『熱田港の活用なくして名古屋の発展なし』と書かれていたが、まったくそのとおりだ。いずれ、でっかい港にしなくちゃならん」

 才吉が珍しく憤然として、声をふるわせた。

 

当時の熱田港が遠浅だったのは、多分に地形のためである。東部の丘陵地と西部の低い沖積平野にはさまれ、その平野部から絶え間なく木曽、長良、揖斐の三大河川が大量の土砂を流し込む。そればかりでなく、庄内川、新川、山崎川、天白川などといった中小河川も流入し、とりわけ庄内川は流砂を起こしやすい第三紀新層を源とする矢田川を支流に持つため、土砂の排出が多く、これを用いて江戸時代から盛んに新田開発が行われてきたほどである。

明治政府が当初、熱田港の整備を冷たくあしらったのは、以上のような地形上の問題のほか、つぎのような理由があったからであった。

そのころ政府は、中仙道に沿って鉄道を敷く計画を持っており、その建設資材を運搬する経由地として武豊港の活用を考えていた。すでに武豊港には東京―四日市間の定期航路船が寄港していることも、有利な材料であった。

この方針に従い、武豊港から熱田停車場までの鉄道敷設工事が行われ、明治十九年三月に開通の運びとなった。

ところが、その後中仙道鉄道の計画は延期となり、東海道鉄道の工事が優先されて二十二年七月に全線開通した結果、武豊線は東海道線の一支線に過ぎなくなり、武豊港の重要性も薄れてしまった。それどころか、貨物集積地の比重が高くなった名古屋から遠くて不便という声も出るようになって一転、武豊港の整備計画は、ご破算となったのである。

熱田港がのちに名古屋港として全国一の貿易高を誇る港湾にまで発展していくことを、才吉が予見していたかどうかは分からぬにせよ、才吉がずば抜けた先見性の持ち主だったことは疑いない。

その証拠に才吉はその後、県から堀川と山崎川の河口にはさまれた新開地(現・港区東築地五号地)の一部五万坪(十六f余)を格安の値段で払い下げを受けたのである。このことを耳にしたとき、加盛は腰を抜かさんばかりに驚いた。

「才吉さん、大丈夫か。いくら侑輔の勧めがあり、値打ちな値段といっても、まだ海のものとも山のものとも分からぬ埋立地を、そんなにぎょうさん買い込んで」

「大丈夫ですよ、加盛さん。県は土地を開発したものの、買い手がつかぬし管理費はかさむしで、頭を抱えているようです。缶詰工場をつくるのに、こんなチャンスはない」

「で、立ち入ったことだけれど、資金は?」

「喜多福を抵当に入れましたし、缶詰製造が将来有望なことを縷々説いたら、お堅い銀行も納得してくれましてね」

「守口漬の販売が好調で、店の信用ができたからな」

「それに、政府や県がこのところ声を大にして『民業奨励』を叫んでいるのも、幸いしましてね。いやいや、それよりも加盛さんをはじめ、みなさんの援助の賜物です」

 そいって才吉は、さも満足げに頭を下げた。

 

 工場を建てる新開地は、堀川の船便こそあるが、道もろくにない辺鄙な場所であった。才吉はまずここに十数人が寝泊まりできる「前線基地」を設けた。()()の差配で気立てのよさそうな中年の賄い婦も、住み込みできてくれることになった。

 ()()も当初は、「こんな土地を買って……」と、不安げだったが、才吉の構想を聞くうちに進んで協力をする気になったらしい

 工場といっても、このころはすべて木造である。普請が始まると、才吉は時間さえあれば現場へ出かけ、大工仕事を見るのを愉しみにした。話は少々逸れるが、才吉の晩年の趣味、というよりも道楽には、義太夫のほかに建築が加わった。なにしろ「毎日、大工のトントンという金槌の音を聞いていないと飯がまずい」というぐらいだから、かなりのものである。

 そのきっかけとなったのが、喜多福を改築したさいのたけさんの仕事ぶりであった。まず驚いたのが、その道具を目にしたとき。宮大工の流れを汲むためか、普通の大工では使いこなせぬチョウナと槍カンナを巧みに扱う。

 チョウナとは、木の表面を平らに削ったり、彫ったりするときに使う手斧の一種。鍬のような形をしており、その昔は大工が扱いやすいように柄の長さを調整していたという。また槍カンナは、槍の穂先のように両側に刃がついていて、引いても押しても使える。

「どうです。この削り具合を見て下さい」

 そういって、たけさんが槍カンナを使って削った木の表面を見て、才吉は思わずうなった。手触りといい、艶といい、普通の台カンナにない味わいを持っている。

「昔の大工は、こうした道具を使って木の持ち味を活かす、いい仕事をしたもんです」

 たけさんは、才吉が普請に興味を持っていると見て取ったのであろう、そうつづけて笑った。

 このたけさん、もうひとつ才吉をびっくりさせたことがある。才吉が台カンナを使い、どれほど薄いカンナくずを削れるか悪戯半分、たけさんに挑戦させたときであった。

カンナから帯のように削りくずが流れ出てくると思いきや、一向になにも出てこない。固唾をのんで見ていると、やがてカンナの中に丸まっている木くずを数メートルも伸ばして、たけさんがいった。「旦那さん。向こう側が透けて見えるほど薄いカンナくずってのは、こんなもんです」

 

しかし、計画がすべてとんとん拍子にいったわけではなかった。米国製の製缶機を導入する段階になって、思いもよらぬ難題が降りかかってきた。取り敢えず一機を本稼働させ、もう一機は予備機を兼ねる二セット体制をとろうとしたのだが、北海道のときと違って米国のメーカーが、技術指導者の派遣はできないといってきた。

 機体をばらして運び込み、現場で組み立てねばならぬのに、そんなことをできる者は一人もいない。やむなく石狩川の開拓史缶詰会社に事情を話し、応援を求めたところ、「二人しかいない技術者のうち、一人を長期にわたって出すわけにいかぬし、現在は多忙をきわめている。悪戦苦闘をしても、なんとか組み立てれば、のちのちトラブルを起こしたさいにも即対応でき、好都合であろう」と、やんわり断わってきた。

「こうなったら直談判だ」

 血相を変えた才吉は、すぐさま忠則をせき立て二人で北海道へ向かった。人生最大の賭けともいえる、この事業。これしきのことでつまずいてどうするーー才吉は、むらむらっと闘志を掻き立てられた。それに、百聞は一見に如かず。この目で工場の実際を見ておけば、きっと後日の役に立つ。そんな思惑もあった。

才吉の凄まじい気迫に圧倒されたのだろう。先方の社長は、はなから才吉に及び腰で、最後には「仕方がない。うちもきびしい状況だが、優秀な技術者を一人出しましょう」

と譲歩してくれた。

 この技術者、社長の自慢するとおり腕の立つ根性のある男で、新しい機械につきものの初期トラブルもすでに経験済みとあって、そのつど手際よく処理をし、その後工場の安定稼働にすこぶる貢献をしたのであった。



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