名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語


第二章 基盤固め (一)

 

喜多福が末広町に店開きした明治十四(一八八一)年五月には、熱田街道の熱田神宮ー広小路本町間に愛知馬車が登場し、通りは一段とにぎやかさを増した。それにともなって、街道に面した喜多福は、「守口大根味醂粕漬」や「青瓜味醂粕漬」の売れ行きが日を追って伸びていった。

「ほのかな味醂の香りと、シャキッとした歯切れのよさがたまらない」「気品のある繊細な味わい」ーーそんな評判が評判を呼び、名古屋土産や料理の箸休めにと、引っ張りだこになったのだった。

 だが、才吉は決して気をゆるめない。いや、それどころか、店員には「店に坐して客を待つだけではだめだ」と自ら先頭を切って、料亭まわりをしたり、人出のある祭りや盛り場などには、積極的に売りに出た。料亭まわりには、板前修業をしていたときの顔を存分に活かした。そして訪問のたびに品質への注文もぬかりなく訊き、改良の参考にした。

朝は必ず午前五時には起床し、夜も仕事でしばしば午前さまになった。それでも決して昼寝などせず、女房の()()がはらはらするほど超人的な働きぶりであった

 才吉は朝の訓示のさい、よくこういって店員たちにハッパをかけたものである。

「いいか、お前たち。仕事は行きと帰りにせよ。店の裏手へ行くときも、手ぶらで行くな。ホウキでもバケツでも持って行って掃除をし、帰りにはなにかするものを持って帰れ。そうすれば、一度に二つの仕事をこなせる」と。

 その半面、店員たちの面倒はとことん見た。門前町から末広町へ移転したさい、五人いた板前のうち腕の立つ三人は、大須方面の料理屋で働き口を見つけてやり、商売に向きそうな二人は、そのまま喜多福へ引き取った。この二人、慧眼の才吉が目をつけただけあって、コマネズミのように動きまわる無類の働き者。守口漬の売り込みや品質改良、以後の新規事業の開拓にどれほど役立ったかしれない。

 才吉は、自由民権運動のメッカであった大須門前町の店では、その活動家たちと入魂となって政治に目覚め、やがて市会・県会議員として活躍することになるが、ここ末広町においては、手広く始めた商売を通じて県下の官、財界の大物とも面識ができ、実業界へ乗り出す道が開けたといってよかろう。

 その実業界で名を売るきっかけとなったのが、缶詰の製造である。現代のような電気冷蔵庫などなかった時代に、長年庖丁を握ってきた才吉が常々思い描いた夢は、丹精込めて創った料理をいつまでも新鮮のまま保てたら、どんなにすばらしいか、ということであった。

 いや、そればかりでなく、食糧の欠乏する大災害時に、保存食さえあれば、どれほど大勢の人々を救えることになるか。また万一、戦争でもあれば、兵士の携行食としてどれほど役立つことであろう。

 日本では戦国の時代から干し(いい)や漬け物、それに鯛味噌などの練り製品が携行食品として利用されてきた。だが、そのどれもかなり保存期間はかなりあるといっても、自ずと限界がある

(文明開化の時代。なにか新しい発明品があるはずだ)

才吉がそんな思いに取り憑かれていたころ、ふと目にとまったのが、ヨーロッパ産の缶詰であった。

(これだ!)

才吉は、跳び上がった。調べてみると、わが国では北海道で開拓民らが米国製の機械を使って、わずかにサケの缶詰をつくっている程度。しかも、庶民の手にはとても届かぬ高価な代物だ。

(よし。もっと安く、多種類の物をつくってやろう)

 これを事業にせぬ手はない。才吉の目の色が変わった。

 さっそく瀬戸時代に懇意になり、なにかと商売上の相談に乗ってもらう窯業界の重鎮、加藤盛三郎こと加盛に意見を求めた。

「ふーむ。缶詰に目をつけるとは、さすがだ。この手のものは早いもの勝ち。ぜひおやんなさい」

そういって加盛は、床の間に飾ってある磁器製の西洋人形をおもむろに取り上げ、才吉に手渡した。

「実は、この置物はうちの窯で焼いている欧米向けのものでな。元はといえば、ご存知、明治六年に開かれたウィーン万博」

「日本政府が初めて公式参加して出品した名古屋城の金シャチが大好評だったという……」

「そうそう。あの万博には、政府から二十四人の技術伝習生が派遣され、そのうちの一人が石膏型を使って焼く、この技術を持って帰った。それまで手捻りや木型、土型で仏像や動物などの置物はつくってきたが、わしはこんな精巧な人形を見るのは初めてで、驚いたのなんの」

「旦那は、いち早くその生産を始められたとか」

「さよう。お陰でいまでは海外向けに羽根の生えたような売れ行き。だがな、すぐに真似をする連中が現われ、足の引っ張り合いになる。それまでに儲けないと」

 加盛はそういって笑ったあと、顔を引き締めてつづけた。

「缶詰もおそらく、そのときの技術伝習生が伝えたのだろう。県の参事を務める息子の(ゆう)(すけ)に訊けば、詳しいことが分かるかもしれん。今夜にも話をしておこう」

 こうして別れた数日後、才吉の店を訪れた侑輔が開口一番、耳寄りな話を伝えてくれた。

「北海道では、あり余るシャケをなんとか長く保存しようと缶詰の技術に跳びついたそうです。缶詰はこれから有望な技術。愛知県としても直接援助はできないけど、殖産興業の観点から、なんらか便宜を図りたい意向のようです」

「そいつはありがたい。なーに、そのお言葉を聞くだけで元気が出てきた。侑輔さん。わたしはやりますよ。県下で先陣を切って始める事業となれば、この上ない名誉だ」

「才吉さん。そうなれば善は急げ。一度、北海道へ行って、缶詰の工場をつぶさに見てきた方がいいでしょう」

「それはそうだが、わたしがいますぐ出かけるわけにいかんしな。……そうだ、忠則を代わりに行かせよう」

忠則(ただのり)さん?」

「門前町の店から連れてきた店員でね。頭の回転が速くて、読み書きもできる。父親を早く亡くして、学問をあきらめた奴だ。あれなら、きっとやってくれる」

 

 侑輔を通じて北海道庁に缶詰工場の見学について打診をすると、思いのほか快く受け入れてくれた。というのも明治十一年に旧尾張藩士らが函館に隣接する八雲村へ開拓民として渡り、苦闘を重ねている経緯があって、尾張の人々に対して、ひとしお親近感を抱いているからであった。

 さすが元気者の忠則も、四日市から汽船に乗り、荒れる遠州灘を経て横浜へ立ち寄り、松島から函館へ向かう長い船旅は、ひどくこたえたようすであった。だが、そこは才吉より一回りも若いだけあって、到着した翌日から「開拓史石狩缶詰所」へ連日通って米国製の機械や操作技術を精力的に勉強し、三週間後には意気揚々と引き揚げてきた。

 才吉は、忠則が持ち帰った資料をむさぼり読んだ。それによると、缶詰の歴史はこうである。

 最初に発明したのは、ニコラ・アペールというフランス人で一八〇四年のこと。瓶詰め方式だったが、さっそく海軍が非常用の食料として採用した。一八一〇年にはこれを英国のピーター・ジュランがブリキ缶による貯蔵方法に改良。その後は戦争のたびに需要が高まり、産業として成長していった。

 一方、日本で手がけられたのは明治九年。そのころ石狩では年間百万匹を越すシャケが獲れ、これを産業振興策のひとつに、と試みられたのが始まりであった。

 石狩川の河口に工場が建てられ、準備作業がスタート。「ボーイズ ビー アンビシャス」で有名なクラーク博士が当時、札幌農学校の教頭として赴任しており、博士もこれを手伝ったという。

 翌十年十月、いよいよ米国製の製缶機を使い、米国人の技術指導の下、創業を開始した。その後、試行錯誤を繰り返し、忠則が見学した日には、一日に五千個近くを生産していた。けれども、その値段は一個一円三十銭。米が一俵(六十`)二円八銭ほどであったから、いかに高価な食品であったか。

(工夫をすれば、もっともっと安くつくれるはず)

才吉は資料に目を通し、忠則の土産話を耳に傾けるうち身体中にふつふつと闘志がみなぎってきた。

缶詰はナポレオンのロシア遠征の折や、米国の南北戦争のさいに、軍が奪い合ったと伝えられているように、戦争ごとに売上げが飛躍的に伸びている。日本だって、いつ大陸で清国やロシア帝国と戦争が始まらないとも限らない。缶詰の製造を早く効率的に、しかも安い値段で生産することは、国益にも沿うことだーー。

 才吉の頭の中に、工場の規模や製缶機の台数、従業員の数などが、おぼろげながら形を成していった。



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