尾張の殿様列伝


第九章 藩中興の祖¥@睦 (2)

 宗睦と治水工事についての秘話を、もうひとつご紹介しよう。

 庄内川の分流工事が始まる直前の天明三年(一七八三)秋のこと。ときおり豪雨の混じる長雨がつづき、大野木村(名古屋市西区)の堤防が決壊しそうになった。懸命に土嚢を投げ入れる村民たち。だが、濁流はすでに堤防を呑み込む勢いとなり、もはや人力では及ばぬ状態となったときであった。

 降りしきっていた雨が突如やみ、雲間から太陽がまぶしく顔をのぞかせた。

 「おお、天の恵みだ!」

小躍りした村人たちは、再び作業をつづけ、見事に堤防を守りきったのである。

互いに肩を叩き、歓び合う村人たちを見て

隣の押切村の庄屋、(いっ)(とう)利助が告げた。

「みなの衆、よう聞け。雨がやんだのは、

宗睦さまのお陰なんじゃ」

「殿様のお陰? どういうこっちゃ」

首をひねる村人たちに、利助がこたえる。

「家臣を早馬で熱田さんまで走らせ、晴天の祈願をされたそうな」

一瞬、静まり返る人々。そのうち、だれいうとなく、「わしら、殿様のお気持ちに沿える

よう、一鍬ずつでも川底の砂をすくい、堤防を頑丈にしていこまい」「そいつはええ考えだ」という仕儀になった。

というのも、堤防が決壊するのは、上流から流れてきた砂礫が川底にたまり、隆起したところを豪雨に襲われると、たちまち水位が上がるためであった。

この自発的な工事の(かしら)には、利助がなり、

鍬初め≠ヘ同年十二月四日に決まった。

 その当日、愕くことに大野木の堤には周辺の村々をはじめ、伝え聞いた遥か木曾谷からも人が集まり、その数二千人を越えた。中には、藩校明倫堂の督学、細井平洲が連れてきた一門の姿も見られた。

 こうなると、藩も捨ててはおけず、酒や肴をふるまって、労をねぎらった。そして、工事の合間に藩主自らが激励に訪れ、村民らを感激させたのである。

 官民が一体となった空前のこの工事は、もっぱら藩主宗睦公の仁徳によるものとされ、御冥加普請と称されて、その後一種の流行になったという。

 ところが、いつの世にも悪知恵の働く輩がいるもの。御冥加普請といつわって工役を強いるお役人が現れ、ついにはその弊害を正すこととなった。

 

さて、治水工事に関しては、幕府の評定所も絡んだ、こんな痛快な話も残っている。主人公は、宗睦によって抜擢された川並奉行兼北方代官酒井(ひち)左衛(ざえ)(もん)である。

そのころ木曽、長良、揖斐の木曽三川とその支流は、城を水害から守るため、左岸はすべて「御囲(おかこい)(つつみ)」と呼ばれる高く堅固な堤防が築かれていた。このため対岸の住民は、しばしば洪水に襲われ、やむなく周囲を丸く土手で囲った輪中(わじゅう)をつくって自衛した。

一方、薩摩藩の多大な犠牲のもとに完成した宝暦の治水工事によって、水害は減ったが、その半面、美濃・(やな)(いづ)村の一帯は工事に伴ってつくられた洗堰(あらいせき)のため、大雨のたびに長良川の水位が上がり、支流の境川へ逆流した水で甚大な被害を受ける結果を招いた。

困った村民らは、この水害を防ぐ堤防を築いてほしいと、再三代官所へ願い出たが、上流の猛反対にあって、許可されなかった。

仕方なく人々は、畑に堆肥を入れるという名目で、こっそりと土盛りをして洪水を防ごうとした。これが畑繋(はたけつなぎ)(つつみ)である。

しかし、この苦肉の堤も上流部から提訴を受けた代官所の手で、取り払わされてしまった。それどころか、天明四年(一七八四)、代官所へ強訴した輪中の代表、奥村元右衛門ら四人は投獄され、後に全員獄死した。

 こうした状況下、改めて畑繋堤の築堤を懇願された酒井代官は「流れた土を原型に戻す」名目で、これを黙認した。収まらないのは反対派。直ちに江戸評定所に訴え出た。

ところが、評定所において七左衛門は「天が人を愛すること一視同仁なり。ひとり上流の民のみ天下の民にして、その他は民にあらざるの理なし」と、堂々と所信を述べた。

この弁に感銘を受けた評定所の奉行は、七左衛門を賞賛し、工事を認めた。これを聞いた宗睦は大いに歓び、七左衛門に脇差一振りを与えたという。二年後、畑繋堤は完成した。

住民たちは、大恩人の酒井代官と牢死した四人の碑を柳津町の慈眼寺(じがんじ)に建て、畑繋大神宮に霊を祭って、今もその徳を称えている。

この七左衛門、浪人をしていたころ、その才を認められて藩士に登用された。以後順調に出世し、文化二年(一八〇五)川並奉行兼北方代官に栄進したのである。

しかし、七左衛門は宗睦公が亡くなったあと、同じように抜擢された家臣と同様、藩から冷たくされ、不遇な晩年を送った。

これまでの話でもお分かりのように、宗睦は治水事業ひとつとっても、人見弥右衛門や水野千之右衛門、あるいは酒井七左衛門といった有能な家臣を登用して、それぞれ期待どおりの仕事をさせている。

そして、彼ら家臣自身も殿様が自分たちの仕事をしっかりと評価してくれる、後押ししてくれるという自信を持っていたからこそ、存分に力が発揮できたのであろう。

言葉を変えていえば、秀吉が「人たらし」といわれたように、宗睦は人使いの達人でもあったといえよう。

こんなエピソードがある。

寛政の改革で有名な松平定信が、老中首座に就いた天明七年(一七八七)からほどなくのころ、たまたま上京のため木曾を通りかかった。すると道中いたるところで、木曾代官山村(じん)兵衛(べえ)(良由)の善政を称える声を耳にした。

中には、「あの方こそ神仏の生まれ変わり」などと大仰に敬慕する農民もあり、強く胸を打たれた定信は、藩政の改革に着手しようとしていた矢先だったこともあり、陣兵衛をぜひ幕府に召し出そうと考えた。

その後、江戸城で宗睦と顔を会わせたのを幸い、定信はさっそく切り出した。

「木曾代官の山村甚兵衛なる者、まことに

優れた人物。幕府においても大いに才能を発揮させたく存じますが、尾張家におかれてはご支障ございませんでしょうか」

これにたいして宗睦は、後日返答を申し上げると即答を避けた。

そして、ただちに国許で調べさせ、なるほどと納得するとともに、己の家臣掌握の至らなさを羞じたい思いをした。

甚兵衛は天明元年に家督を相続し、九代目当主の座に就いたとき、家の財政はきわめてきびしい状態にあった。財務に長けた甚兵衛は、思い切った節約と種々の収入策を講じて、数年も経たぬうちに借財を返済した。

いや、それどころか、当時木曾を襲った凶作のさいには、自ら領地を巡回して歩き、困窮する農民たちに惜しみなく金品や、穀類を分かち与えたのである。

「あの者は、当藩においても別に命じたき儀もござれば」

宗睦が定信に、断りを入れたのはいうまでもない。すぐさま甚兵衛を家老に取り立て、藩政に参画させるとともに、従五位下伊勢守に任官させたのである。



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