尾張の殿様列伝


第九章 藩中興の祖¥@睦 (1)

 江戸中期に藩政改革を見事に成し遂げた殿様は? と問われると、たいていの方は米沢藩の上杉鷹山とか、恩田木工を巧みに使った松代藩の真田幸弘とか、肥前藩の鍋島直正とかの名前を挙げるであろう。

 ところが、わが尾張藩には、それらに勝るとも劣らぬ藩政改革を成し遂げた名君がいた。「尾張藩中興の祖」と称えられる九代藩主徳川(むね)(ちか)その人である。

 財政の建て直しはむろんのこと、熱田の新田開発や窯業・織物などの殖産興業、あるいは庄内川の治水工事や藩校・明倫堂の創設、代官制度の刷新――等々、指折り数えたら、キリがないほどの治績を挙げている。 

 しかも、典型的な封建制度のただ中で、家柄や身分のわけ隔てなく、津金(つがね)文左衛門((たね)(おみ))や人見弥右衛門(?邑(きゆう))、あるいは樋口好古(よしふる)といった農政に明るい、いわゆる地方(じかた)巧者(こうしゃ)をどしどし登用し、思いきった改革を行わせている手腕は、並みの名君とはいささか違う。

 父親の八代藩主(むね)(かつ)も、あの宗春の「後始末」に苦労をした優れた殿様であったが、宗睦はその次男として享保十八年(一七三三)十月二十七日に生まれた。

母は側室の一色氏(英厳院)。幼名も親しみやすく熊五郎。宝暦十一年(一七六一)六月、父の逝去によって、九代藩主となった。

 では、手始めに天明・寛政の改革といわれる宗睦の業績のうち、まず治水関係から話を興そう。

 ご存知、庄内川は岐阜県恵那市の夕立山に源を発し、瑞浪、土岐、多治見の盆地を流れ、愛知・岐阜両県の県境、玉野渓谷を抜けるまでは、玉野川とか土岐川と呼ばれる。

濃尾平野へ出ると、名古屋の北西をぐるりと湾曲して伊勢湾へ注ぐが、この庄内川が存外の暴れ者。しばしば氾濫を起こし、流域に大きな被害を及ぼした。

 安永八年(一七七九)七月二十三日からの暴風雨による氾濫は、ことのほかひどく、味鋺(あじま)、比良、大野木一帯は泥海と化した。これに追い討ちをかけたのが、一ヵ月後の八月二十日から五日間つづいた長雨である。泥水につかり、傾いた家の中で飢えた子どもたちの泣き叫ぶ声が、あちこちにあふれた。

 「余は見舞いに赴く。仕度をいたせ」

 惨状の報告を受けた宗睦は、ただちに現地へ急行し、用意させた握り飯を自ら被災者の一人ひとりにふるまったのである。

 水害の惨状を目の当たりに見た宗睦は、二之丸御殿に戻ると、ただちに参政(家老)の人見弥右衛門と、勘定奉行の水野千之右衛門を呼んだ。そして、まず水野にいった。

 「そちが先年、藩に建白書を提出した庄内川の改修工事、余は認めることとした」

 「えっ。膨大な工事費を要しますので、財政窮迫の折、見送りとなっておりましたが」

「あの惨状を見たら、捨ておくわけに参らぬ。改めて工事の申請をいたせ」

「ははぁ。ただちに」

感激して平伏する水野。宗睦はつづいて人見に視線を移して、命じた。

「聡奉行は人見といたす。よいな」

「ははっ。承知仕りました」

「幕閣から借金はしたくないが、領民のためとあれば、歓んで頭を下げるか」

そういって苦笑する宗睦に二人は、ホッとして顔を見合わせた。

 水野の提案した改修工事とは、味鋺村(現・名古屋市北区)の庄内川右岸堤防を一部低くし、そこに洗堰(あらいぜき)をつくって水の流れを隣に掘削する人工の新川に分流させ、水勢を削ごうというもの。

この新川には、さらに合瀬川や五条川、大山川などを合流させ、伊勢湾に流す構想。洗堰から伊勢湾までに二百ヵ所以上の拠点を設けて、同時着工する突貫工事を行った。

天明四年(一七八四)に藩と幕府から承認を得て、二十八ヵ村から人員を動員し、わずか三年後に竣工した。しかしこの間、人見と水野が着工を認めてもらいたい一心から、工費を少なく計上していたことが露見した。

「泣いて馬謖を斬る、とはこのことか……」

 宗睦は事実を知ったとき、思わずそうつぶやいた。両名の心情は、分かり過ぎるくらい分かる。けれどもーー。結局二人を降格処分にした。だが、ひきつづき職務は続行させ水野はその後、日光川の改修工事でも存分に腕をふるったのである。

 庄内川の改修には、総工費四十万両を要し、当時の藩予算の一年間分を越えたという。

 新川には後日談がある。戦後の急速な市街地化、コンクリート化によって雨水が一気にこの川へ流れ込み、集中豪雨のたびに水害を受ける地域がふえてきた。

 二〇〇〇年九月の東海豪雨によって、名古屋市西・北区、旧西枇杷島、旧新川、旧清洲の各町が甚大な被害を受けたことは、記憶に新しい。水との戦いは、今もつづいている。



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