尾張の殿様列伝


第八章 後始末≠ノ追われる宗勝 (2)

実権を握った竹腰、成瀬らは、宗春が新設した橘町役所の廃止・三遊郭の閉鎖・新規芝居小屋の取り壊しなどを決めた。

「うーむ、はかられたか」

江戸にいて、なにも手の打てぬ宗春は、どんなに地団太を踏んだことであろう。

こうした事情をしっかり承知している宗勝は、まず先代宗春の政治方針を百八十度転換して、その弊風を一掃し、人心の一新をはかることとした。

中でも喫緊の課題は、なんといっても放漫政治により積み上がった藩財政の赤字解消である。宗春蟄居の前年、元文三年の資料によると、金で七万四千両、米で三万四千石の不足をきたしていた。

これほど巨額の赤字を、どうやって解消するか。並大抵の努力ではできない。

宗勝は、襲封して間もなくの三月、倹約令を発し、藩士の衣服などを質素なものとし、冗費を徹底的に省くように命じた。

また、宗春時代にきわめて派手になった東照宮の祭礼も費用を半減し、こじんまりしたものに変えさせたのも、領民たちに節約の意識を浸透させるためであった。

こうして藩を挙げて倹約に努めたが、宗勝は、「その目的のために、民衆を苦しめるものであってはならない」とし、「余分な支出、無駄使いをなくすことこそ肝要」と説いた。

民衆を苦しめずに、などという発想はいかにも宗勝らしく、次代の宗睦にも受け継がれたといえよう。また、宗春の唱えた「慈」と「忍」と、どこか通底しているようにも思われる。

それはともかく、つぎに宗勝の打った手は、星野織部をはじめ千村新平、幡野弥兵衛ら宗春側近の追放であった。これによって藩内の空気は、がらりと変わった。

宗春時代に絹の派手な衣服をまとい、星野らにもみ手をしたり、へつらい笑いを浮かべて擦り寄っていた連中が、突如木綿の地味な着物に替え、つぎに新しい権力者になるのはだれか、鵜の目鷹の目で探すありさまとなった。

この期を逸せず宗勝は、藩政の流れを逆回転させた。「享保八年(一七二三)の令を用ふべき旨を令す」とか、「元禄七年(一六九四)の令の如し」とか、「先々代の制に復せられしなり」のように、なんと六代継友や二代光友にまで遡る法令を復活させたのである。

いいかえると、宗春時代に出された法令はすべてご破算にして、それ以前のものに立ち返ろうとしたのだ。

つづいて翌五年正月、藩役所に対して「政務遂行に当たっては、公平であるべきこと」と指示する一方、無職や部屋住みの家臣に対して、文武の修行に励むように命じた。

藩士たちは、文武の文はともかくとして、武の方には戸惑った。長らく泰平の世となって、武芸の鍛錬する者などは少数派となり、各道場ともに閑古鳥の鳴く状態であったからである。

そんな折、嫡子の宗睦が舞曲から文武の道に関心を持つようになったと聞いた宗勝は、「そうかっ」と、脇息をたたいて歓んだ。

江戸に出府すると、必ず藩邸の庭に宗睦を呼び出し、剣術の相手をさせるようになった。剣の流派は、むろん柳生新陰流である。

むろんというのは、尾張藩は初代藩主義直のとき、柳生流正伝継承者の柳生兵庫助(とし)(とし)を藩の兵法師範役とした。

以来、兵庫助や連也ら柳生家の人たちに混じり尾張藩では七人の殿様(義直、光友、綱誠、吉道、治行、斉朝、慶勝)が新陰流の正統、つまり印可相伝を受けているのである。



inserted by FC2 system