尾張の殿様列伝


第八章 後始末≠ノ追われる宗勝 (1)

目下売り出し中の歴史学者、磯田道史さんの著書『殿様の通信簿』ではないが、もし全国でおよそ三百あった藩の殿様を5段階評価するとしたら、尾張藩八代藩主の徳川(むね)(かつ)は実子の宗睦と並んで、間違いなくトップ・クラスに入るであろう。

オール5ではないかもしれない。が、実は尾張藩中興の祖と称えられる宗睦の業績の基盤をつくり、種を蒔いたのは宗勝であった、と指摘する史家もいるほどである。

しかし宗勝が、あの自由奔放な政策で名古屋をいっとき繁栄に導いたものの、緊縮倹約政策を執る、ときの将軍吉宗と対立し、蟄居謹慎となった宗春の後継者に、すんなりと決まったわけではなかった。

吉宗が江戸城に成瀬隼人正太(まさもと)、竹腰志摩守正武ら尾張藩重臣五人を召し出し、藩主宗春の隠居謹慎を命じたのは、元文四年(一七三九)一月十二日であった。

その後吉宗は、竹腰正武をひそかに呼びつけ、こう告げた。

「志摩守。尾張の後継には、三卿のうちの田安(むね)(たけ)を当てたいと思うが、どうじゃ」

力士のような巨躯から発せられる野太い声に威圧されて正武は、蒼白になった頬を引きつらせて、こたえた。

「ははっ。それがしは、尾張家に仕える陪臣の身であり、尾張殿と名の付くお方には、どなたにもお仕えする覚悟でございます。さりながら……」

「さりながら、なんじゃ」

言葉を詰まらす正武に、吉宗がせかせかとつぎをうながす。

「家臣どもは、分家の高須家を差し置いて外部からご相続とあっては、藩内はとうてい治まりますまい。そのとき藩内を取り鎮めるのが、それがしの職務ではございますが、いたって不器量なので、家中を納得させられるかどうか、分かりませぬ」

それを聞いて吉宗は、「さきに正武は宗春の退任が藩の総意にございますと、取りまとめ役(ずら)をして訴え出ながら、今回はなにを申す」と思ったが、さすがにそれは口に出さず、

「そちがさほど申すなら、考え直そう」

と、渋々あきらめたのだった。

こうして八代藩主には、川田久保家に生まれ、美濃高須藩の松平義孝の養子になっていた(よし)(あつ)、改名後徳川宗勝が誕生したのである。

 

ここで、話を分かりやすくするため御三卿と、付家老・竹腰正武の動きについて述べておこう。

まず御三卿からーー。第八代尾張藩主・継友との将軍職争いや、宗春の反抗に懲りた吉宗は、以後の将軍職をわが血統で占めようと考えた。そして田安家、一橋家を興し、田安家には次男宗武、一橋家には四男宗尹(むねただ)を当主に当てた。そのあと九代将軍家重のときに清水家がつくられ、次男の重好が初代当主となった。この三家が御三卿といわれる。

これによって尾張藩から将軍の出る芽は、完全になくなったのである。しかも、吉宗は宗春の後継に田安家の宗武を据えようと狙ったのだから、尾張藩も舐められたものだ。

一方、付家老の成瀬、竹腰の両家は、独立して大名になるのが、長年の悲願。このため尾張藩のことよりも、幕府の鼻息をうかがうことに懸命であった。

竹腰正武は、将軍吉宗に逆らう宗春を失脚させ、吉宗に迎合しようとして、成瀬正太(まさもと)はじめ志水、石河ら重臣を巻き込み、宗春が江戸に出府した元文三年(一七三八)五月三十日に、今でいうクーデターを起こしたのである。



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