それはさておき、当時は側室の子も一定の年齢になると、江戸へ出る仕来たりになっており、通春は正徳三年(一七一三)四月、初めて江戸の土を踏んだ。
通春より四歳上の継友と、五ヵ月年長の通温の異母兄二人は、すでに前年三月、藩主の吉通とともに出府し、四谷の中屋敷に入っていた。
その後二十年間近く江戸藩邸で生活をするが、青年時代の宗春の行状については、ほとんど分からない。ただ、人間形成の時期であったことは間違いなく、江戸での芝居見物や遊廓通いを大いに満喫し、学問については後年、宗春が書いた『温知政要』に荻生徂徠思想の影響が色濃く見られることから、徂徠学を学んだことが推測できるという。
若き日の宗春について文左衛門は『鸚鵡籠中記』にこんな話を書いている。ひとつは、正徳三年(一七一三)四月六日。
「卯半刻(午前六時過ぎ)万五郎様、予が町(現・名古屋市東区主税町)御通り、木曽路御下りなり」
供につく藩士の中村又蔵ら数人の名を上げ、
「予、門外少し東へ御目見に出。定右衛門折角(せっかく)息災でと御意あり。御笠御馬に御したまふ」
たったこれだけの記述であるが、宗春のやさしい人柄がよく出ている。定右衛門とは文左衛門の父親で、このとき八十歳。早朝、見送りに出た定右衛門に目をとめ、「達者で過ごすように」と声をかけたのである。(この父親は翌年亡くなっている)。
文左衛門は、このときの藩主吉通の嫡子、五郎太に関しては、御七夜から宮詣、誕生祝の能――等々、こと細かく書き残しているが、
宗春については、藩主の弟であっても、ほとんど触れていない。庶流に当たる宗春には、それだけ藩内の関心も薄かったのであろう。
つぎに宗春について書かれているのは、その後二ヵ月ほど経った閏五月のこと。宗春付きの家臣が相ついで変死した。
一人は、同時に江戸へ下り、御勝手番を務めていた朝倉平左衛門。詳細は書かれていないが自害し、「吐血頓死」と公表された。またこの平左衛門の前任者も、宗春の供をして江戸市中へ出かけ、帰邸してから、やはり「吐血頓死」している。
自害した理由は、いっさい不明。だが、あまりに唐突で、首をひねらせる話ではある。
宗春が江戸に入って間もなく、小姓に取り立てられたのが、星野藤馬(のちに織部)であった。年齢は宗春よりも五、六歳下。
何かというと口うるさい名古屋時代の御側衆にくらべて気が置けず、それでいて頭の回転が速く、万事にそつのない星野を宗春はしだいに重用していく。
宗春が十八歳となった正徳三年は、尾張藩にとって大事が相継いだ。七月二十六日に四代藩主の吉通が亡くなり、その翌月、わずか三歳で五郎太が後を継いだ。
一門こぞって幼君を補佐し、盛り立てていかねばならない。その要になるのは、三代綱誠の弟で吉通の弟、つまり五郎太の叔父にあたる四谷家の当主義行である。
支藩にはほかに大久保家、川田久保家があり、宗春はまだまだ「お呼び」でなかった。
五代目藩主を継いだ五郎太も三ヵ月後に死亡し、尾張徳川家の正統は絶えた。六代目は吉通の弟継友が継いだ。