尾張の殿様列伝


第六章 全国区≠フ傑物、宗春 (1)

全国で三百余を数える諸藩の中で、ときの将軍の政策に公然と反旗を翻した大名は、尾張藩の七代藩主徳川宗春をおいてない。なるほど、初代の義直も家光にしばしば逆らった例はある。けれども、これはどちらかといえば私怨≠ノ近い。

しかも、相手は歴代の将軍の中でも「暴れん坊」とも称されるほど権力と行動力を兼ね備えた天下人°g宗である。

吉宗は、傾きかけた幕府の財政を立て直すため、質素倹約の徹底を叫んで贅沢や遊興を禁じ、「公方さまのお好きなものは、お鷹狩りと下の苦しみ」と庶民から怨嗟の声を上げさせ、財政再建は成ったものの、世の中を息苦しい停滞に向かわせた。

 一方、そんな享保の改革に反発し「民の歓びは余の歓び」と、自由奔放な開放政策を打ち出して、いっとき「名古屋の繁栄に京(興)が醒めた」と、三都の人々を歯噛みさせた殿様だ。

そんな宗春を「ぜひNHKの大河ドラマに」と名古屋市民の間からの声が高まっているのも、まことにむべなるかな、である。

しかし、物事には必ず表と裏がある。方や「名古屋を大都市として発展させる基礎をつくった名君」とたたえる人がいるかと思えば、方や「名古屋を台なしにしてしまった放埓な暗君」と酷評する人もいる。

そのどちらに軍配を上げるにせよ、「歴史は勝者の記録」といわれるように、ときの権力者の政治路線に逆らい、蟄居謹慎を命じられた敗者についての記録は、見事に抹殺、廃棄され、残された資料はごくわずか。

だが、いくら「臭いものにフタ」をしたところで、末代まで隠しおおせるものでない。探究心強い史家の方々や、多くの碩学によって発掘された史料も、それなりに公表されている。それらの書物を参考にしつつ、宗春の足跡を功罪合わせて、たどっていくこととしたい。

 

宗春(幼名万五郎)は、元禄九年(一六九六)十月二十八日、三代藩主(つな)(なり)の子として生まれた。綱誠には男女合わせて三十九人もの子どもがあり、その中で二十番目の男子。

母は、三浦太次兵衛(家老成瀬隼人正の同心)の娘で、綱誠の側室となった海津(梅津とも、宣揚院)である。

跡継ぎになれなかった大名の二男以下の公子は、分知(分家)にありつけぬ限り、家臣を含む他家の養子となるか、わずかな御あてがい(蔵米)をもらって過ごす部屋住みで我慢するよりない。二十男である通春など、藩主になれるのは、夢のまた夢であった。

大名の正室は、江戸藩邸に住まねばならないが、側室の場合には国元で暮らすことが多く、万五郎は名古屋の母のもとで育った。

元禄十二年六月、数え四歳のときに父綱誠が没し、四代藩主を継いだのは、兄の(よし)(みち)であった。そして十三歳の折に、吉通から一字をもらって通春と名乗った。

あの忠臣蔵の赤穂浪士が討ち入ったとき、万五郎は七歳。家臣から話を聞いても、どこまで理解できたであろうか。

ご存知、あの朝日文左衛門重章の『鸚鵡籠中記』には、事件についてこう記している。

「十二月十五日夜、江戸にて、浅野内匠家来四十七人亡主の怨みを報ずると称し、吉良上野介首を取り芝専(泉)丘寺へ立ち退く」

この文左衛門、享保三年(一七一八)に四十五歳で亡くなっており、せめてもう十数年生きていてくれたら、宗春治世下の名古屋の様子を克明に書き残してくれたろうに、と思うと、残念でならない。



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