尾張の殿様列伝


第四章 大魚≠逸した吉通 (2)

一方、吉通の治世時代は災害つづきであった。元禄十三年(一七〇〇)二月に千六百五十戸を焼失した城下西部一帯の大火、同十四年八月の庄内川右岸の氾濫、宝永四年(一七〇七)十月の大地震につづく十一月の富士山噴火――等々、多くの被災者を出した。

 吉通は家中一統に対し、百石に五石ずつの拠出を命じたり、馬の持ち数を半減したりして財源を捻出し、領民の救済対策に当てた。

この面でも、名君といわれたゆえんである。

吉通について語るとすれば、いやでもその生母、お福の方(三代綱誠の逝去後は落飾して本寿院と呼ばれた)の常軌を逸した乱行ぶりに触れねばなるまい。

 本寿院は、尾張藩同心、坂崎勘右衛門の娘。絶世の美女だったため、数ある側室の中でもひときわ綱誠に寵愛され、吉通をはじめ蔦姫、立姫、岩之丞の二男二女を生んだ。

わが子吉通が藩主となったあとは、権勢並びない存在となり、しばしば藩政にも口をはさむようになった。一説では、もう一人生んだ息子、岩之丞を支藩の高須藩に送り込もうとして、藩主の義行に拒否され、両者の関係がしばらく悪化したこともあったという。

 ところが、この本寿院、落飾したときは三十五歳の女ざかり。『鸚鵡籠中記』によると、生まれつき「貪淫(どんいん)絶倫」だっただけに、爛熟した身体をもてあまし、「すぐれて淫奔(いんぽん)にわたらせ給ふ」ご乱行ぶりは、世間を唖然とさせた。『鸚鵡籠中記』は語る。

 「或いは寺へ行きて御宿し、又は昼夜あやつり人形狂言にて諸町人役者等入込み、其の内御気に入れば誰によらず召して淫戯す」

 つまり、昼夜かまわず外出し、寺院に泊まれば僧侶と、芝居などに行けば、目についた役者や町人を家来に命じて屋敷まで連れて来させ、欲望の赴くままに淫行をしたと。

 また、尾張藩士による『趨庭(すうてい)雑話(ざつわ)』には、「はじめて江戸へ下りし者は、時にふれて御湯殿へ召され、女中に命じて裸になし、陰茎の大小を知り給ひ、大なればよろこび給ひ、よりより交接し給ふことありき。また御湯殿にても、まま交合の巧拙を試み給ふ」とも。

 男性のチン列? を愉しみ、だれかれ構わず、ところ構わず手当たりしだい、といった荒淫ぶりである。 

籠中記』はさらにこんな話もつづる。

 藩邸に出入りする商人や、奉公人の中間など気に入った者がいると、部屋に招き入れ、相手によっては事後に金一封≠与えた。

 宝永元年(一七〇一)九月には、性の力強い奉仕役として、相撲取り一人を召し抱えた。 

また、この年、山本道伝という藩医が参勤交代で江戸へ下るべきところを、理由をつけて名古屋にとどまった。なんでも江戸にいたころ、本寿院からたびたび中絶の手術を仰せつけられ、また性のお相手役を務めるのに、ほとほと嫌気がさしたのだったとか。

 

こうした本寿院の乱行が幕閣の耳に入らぬはずはない。そして、ついに元禄一五年(一七〇二)、幕府の老中が尾張藩の老臣、鈴木伊予守にこう耳打ちした。

 「よいか。御三家筆頭というお家のために申すのだが、本寿院殿の素行についてよくないうわさが広がらぬうちに、善処せられよ」

 といわれても、相手は主君のご生母。だれしも「では、拙者が本寿院様にご忠告を」と猫の首に鈴を付ける者などいない。頭を抱える重臣たちをよそに本寿院の乱行は、ますます深まるばかり。

 しびれを切らした幕閣が、「本寿院殿 蟄居」の断を下したのは、宝永二年(一七〇五)六月のことであった。

こうなれば、いたし方ない。藩の重臣たちが本寿院を言葉巧みに四谷の中屋敷に誘って幽閉し、外部との連絡をいっさい断ってしまった。名目はあくまで藩主の吉通が、自らの判断で母親を処断する形をとったのである。

 こののち本寿院は名古屋へ護送され、城下の御下屋敷に幽閉された。

 人並み外れて淫奔絶倫であった本寿院。異性との接触をまったく絶たれた三十四年間に及ぶ禁欲生活は、死にもまさる業苦であったに違いない。

朝日文左衛門は、その狂おしい姿を『籠中記』の中にこう記している。

 「御乱髪なんどにて、御屋敷の大もみの木なんどへのぼりたまう事ありと云々」

 五十歳を過ぎた老女が、髪ふり乱して奇声を発し、木によじ登る光景は、まことに身の毛のよだつ思いがする。

 本寿院が没したのは、元文四年(一七三九)二月十四日。同月二十九日に相応寺(現・千種区城山町)に葬られた。享年七十五歳。

 では、これら一連の話にどれほどの信憑性があるだろうか。

先に触れたように、本寿院は藩政にも口を出し、これに反発する勢力がかなりあったと伝えられるほか、将軍の跡目争いに関連して、尾張藩をおとしめるため、意図的に流された醜聞という見方もある。

 一方、『趨庭雑話』は、人から聞いた話をおもしろおかしく書く、いわば当時のゴシップ誌。これもどこまで信用できるか。

 とはいえ、本寿院が御下屋敷に閉じ込められ、実子の吉通とも面会できなかったことは厳然とした事実であり、「火のないところに……」の喩えどおりの面もありそうだ。



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