さて、綱誠のあとを継いだ四代吉通。この殿様も六代継友と同様、名君だったか暗君だったか、その評価は天と地ほどに分かれる。それだけ謎の多かった人物といえるが、まず「まさか」と愕くほどのバカ殿ぶりを書きつづった『鸚鵡籠中記』をご紹介しよう。
宝永四年(一七〇七)盛夏のある日、吉通が「水練(水泳)をしたい」といい出した。家臣がそのために八百両をかけてつくった舟を庭に出し、さっそく水を入れた。
ところが、中に一歩足を踏み入れた吉通が「冷たい! 何とかせい」と叫んで飛び出してしまった。あわてた家臣が湯を沸かして入れたのは、いうまでもない。
だが、こんどはひどい水漏れ。とうとう水練ができず仕舞いだった。結局、せっかく造った舟は、持ち腐れ≠ニなってしまった。
また、吉通は無類の大酒呑みであった。東海道五十三次の宿場の名をつけた盃を毎日のようにつぎつぎと飲み干す。しかも、上り、下りと何往復もしたというから、愕き。
綱誠時代からつづくきびしい倹約令下なのに、殿様がこんなありさまでは、示しがつかない。
正徳三年(一七一三)の七月二十六日、臨終のさいのありさまも、まことに悲惨だ。平生から吐血することがしばしばあったが、侍医の大野方安は見舞いに訪れた幕府医師が呆れるほどの「大ヤブ」。治療はおろか、脈を診ることもほとんどなかったらしい。
吉通が二十六日の深夜。江戸藩邸の座敷で危篤状態に陥ったとき、ほとんどの家臣は退出して肝心の侍医もおらず、その場に居合わせたのは寵臣の守崎頼母とその姉だけ。
すっかり動転した頼母は、「こんな場所で御絶命になられては、われわれ両名はどんなに非難されるか」と、息も絶え絶えの主君を引き立て引き立て、途中で吉通が「苦しい。ここで休む」と喘いでも、冷酷な頼母は取り合わず、御座の間まで連れて行った。
なんという人非人か、と人々が切歯扼腕したという。だが、人非人はほかにもいて吉通の病中、あるいは臨終のさいに、主君の前もはばからず、これ幸いと、われがちにめぼしいものを盗み去った側衆がいたとも。
「特定秘密保護法」などなかった当時、藩の必死の隠蔽工作もむなしく、うわさはみるみる世間に広まったのだった。
『鸚鵡籠中記』が吉通や側近について口をきわめて悪態をついているかと思えば、まるきり反対に、賞賛してやまぬ著作もあるから、ややこしい。
吉通の側小姓として身近に接した近松彦之進茂矩の『円覚院様御伝十五条』と、『昔噺』がそれである。
吉通は三代綱誠の第十子として、元禄二年(一六八九)九月に生まれ、同十二年に家督を継いだ。まだ十一歳という、この幼い藩主に徹底的な帝王教育を施したのが、叔父に当たる分家の美濃高須藩(現・岐阜県海津市)藩主の松平義行であった。
その薫陶の賜物であろう。吉通は文武に励み、儒学、国学、神道を修め、武術では尾張新陰流九世を継承したほど。中でも、心に強く刻み込まれたのが、初代藩主義直の尊王の志であった。
義直がその著『軍書合鑑』の巻末に記した
「王命に依って催さるる事」の意味を、つぎのように解釈した意義は、きわめて大きい。
「もし不測の事態が起きて、朝廷が万一兵を挙げられることがあれば、迷うことなく官軍に属すこと。一門のよしみを重んじて、かりそめにも天朝に弓を引いてはならぬ」
これが一種の「藩訓」となって、幕府からの押し付け#ヒ主を除く代々の藩主に受け継がれ、やがて十四代慶勝の時代に至って、
新政府軍に就く精神的な支柱となる。
となると、吉通は必ずしも朝日文左衛門が指弾するような凡庸な殿様ではなかったことになりそうだ。
『鸚鵡籠中記』のネタ元は、江戸藩邸の下級武士らによるうわさ話。しかも将軍の後嗣争いをめぐって、反尾張藩の情報操作が懸念される折だったから、その情報はかなりまゆつばもの≠ニいっていいかも。
また『御伝十五条』も、近松茂矩が吉通逝去後五十余年を経てからの追憶記だから、多少の記憶違いはあるだろう。