尾張の殿様列伝


第二章 建築マニア′友 (2)

これまで体育系の素養について、褒め殺し≠ニも思われる側面を述べてきた。では、肝心の治世の方はどうであったろう。

 あえて一言でいえば、家康から受け継いだ義直の膨大な遺産を、大火災や自然災害の復旧のために費やしたうえ、信仰心の篤さと建築趣味から壮大な寺社や、豪華な邸宅をつぎつぎとつくって使い果たしてしまい、以後の歴代藩主がきびしい難財政に苦しむ遠因をつくったといえそうだ。

 災害といえば、あの万治三年(一六六〇)正月十四日、町家の大半を焼き尽くした万治の大火災を上げねばなるまい。申上刻(午後三時ごろ)本町通の杉之町角から出た火は、折からの強風にあおられ、武家屋敷一二〇軒、町家二、二四七軒、寺院三〇を焼き尽くし、翌朝卯上刻(午前五時ごろ)やっと鎮火した。

 清須越以来の建物のほとんどが、一夜にして焼失したのだった。これに懲りた藩庁は類焼を防ぐために街路を広げ、とくに堀切通を思い切って幅一五間(約四九・五b)の広小路とした。これが現在に至る、おなじみの広小路通である。

 この発想は、名古屋市の戦後復興都市計画に生かされ、「町の真ん中に飛行場でもつくる気か」と冷やかされながらも、久屋と伏見に二本の一〇〇b道路が完成したのである。(歴史はやはり繰り返すか)。

 この大火のさい、火の番が十分機能しなかったという非難の声に応じて藩庁は、翌寛文元年九月に各小路に辻番を置くとともに、木戸も増設し、それまで三之丸の東照宮にあった「時の鐘」を桜天神に移した。

 また、二之丸西鉄門(くろがねもん)に「時の太鼓」を置いたのも、このときである。さらに寛文四年(一六六四)には区域が狭くなったため、刑場のあった千本松原に市街をつくり、光友によって「(たちばな)町」と名づけられた。

 万治の大火のさいに藩は、被災した家臣には十両から十五両を、町方には銀一千貫目(約一万五千両弱)を貸与した。

また、寛文六年(一六六六)七月には大暴雨風に見舞われ、平田村で破堤するなど領内各地で水害が発生。洪水によって百三十ヵ所の橋と、木曽材木五万本が流出し、水損は十五万五千石に達した。

 これらの災害に対して藩は、救援、復旧の出費を余儀なくされたが、先述したように、それをはるかに上回る大規模な寺社や別邸の建設によって、義直の膨大な遺産は、たちまち底を尽き、幕府から十万両もの借金をする羽目に追い込まれた。

 ちなみに、義直が家康から譲られた遺産はどれほどだったか? 徳川美術館刊行の『尾張の殿様物語』を基にしてご紹介しよう。

 元和二年(一六一六)四月、駿河城で亡くなった家康は、莫大な遺産のほとんどを尾張義直、紀伊頼宜、水戸頼房の御三家に三・三・二の割で分与した。いわゆる『駿府御分物』である。

 このとき作成された『御道具帳』によると、金銀の道具、刀剣、甲冑、茶の湯道具、衣服、調度類のほか絵画、書跡などの美術品、輸入品の絹織物や薬品、さらには何とワインまであったという。

 しかも、家康が直接身につけていた甲冑や衣服も含まれており、刀剣や茶の道具類には名品とされる品々も多数含まれているというから、その骨董品的な値打ち≠ヘ測り知れない。幸い、大半は尾張家に代々伝えられ、現在は徳川美術館に保管されている。

 一方、『御道具帳』に記載されていない品々のほかに、膨大な量の書籍類があった。これらは『駿河御預本(おあずかりほん)』と呼ばれ、尾張家に分与

された書籍は三七八部、二、八三八冊。すべて名古屋市蓬左文庫に保存されている。

 義直が譲り受けた書籍の中には、儒教、歴史に関するもの以外に、諸子百家の書・漢詩文集もあり、家康がいかに書物を好み、学問に傾倒していたか、しのばれる。

 最後に、われわれ庶民のもっとも知りたい? おカネはどうであったか。家康が駿府城に遺した金銀子は約二百万両。このうち尾張・紀伊両家には約四十万両、水戸家には約二十六万両が分与されたという。

これらの巨額の遺産は、義直が尾張家を確立するさいの原資になったことは、疑いない事実である。

 

光友は寛永二年(一六二五)七月二十九日、名古屋で生まれた。その前後のいきさつは義直の項で記したが、幼名は五郎太。八歳で元服したさい、従兄弟で将軍の徳川家光、義直から一字ずつ賜って(偏諱(へんき)光義と名乗った。(後年になって光友と改名)

義直の逝去によって家督を継いだのは、慶安三年(一六五〇)六月、二十五歳のとき。神仏尊崇の心が篤く、その翌年に父の菩提を弔い、尾張藩すべての人々の心のよりどころとなるように、建中寺を建立した。

現・東区筒井一丁目地帯の五万坪(約十六万五千平方b)の地に、本堂をはじめ諸仏像の伽藍十棟を建立した。

これが大建築物つくりの、いわば走りであった。その後明暦元年(一六五五)に熱田の宮宿に西浜御殿、つづいて寛文元年(一六六一)に生母の吉田氏歓喜院の菩提寺として春日井郡大森(現・守山区弁天が丘)に大森寺(だいしんじ)を創建した。

江戸の小石川伝通院内にあったものを移設した寺で、山門に光友自筆の興旧山の額が掲げられている。光友が「たやすなよ大森寺の鐘の声 たとへこの世はかはり行くとも」と詠んだ歌を、竹屋三位光兼に書かせた色紙が現在も寺宝として伝わっているという。

 このほか、若宮八幡宮や江戸戸山藩邸の造営とか、熱田神宮および名古屋東照宮の修復造営、さらには江戸市谷邸の焼失・再建や大曽根別邸の建造が加わり、財政難に追い討ちをかける出費が重なった。

 では、光友と八事・興正寺とのかかわりをお知りになりたい方も多いであろう。

この寺は、高野山で修行をした天瑞圓照和尚が、貞享三年(一六八六)、熱田に招かれたさいに出会った八事山の穏やかな起伏に松が茂り、豊かな水と静寂に満ちたたたずまいにすっかり感服し、この地に密教と戒律の寺の建立しようと発願したのが始まり。

そして、ときの藩主光友の帰依を得て、律寺建立の許可を得るとともに、八事山遍照院興正律寺の号を賜ったのである。
 これ以後、尾張徳川家との絆を深め、援助を受けながら諸堂を整備し、若き僧たちの学問・修業の場として、また人々の信仰のよりどころとして発展した。

 なお、この寺には七代藩主宗春が蟄居中の晩年に再三訪れ、額面用の自筆「八事山」の一行書一幅などを寄進している。



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