尾張の殿様列伝


第二章 建築マニア′友 (1)

第二代藩主の光友は、「生まれながらの武芸者」といえる素質を持っていた。体力抜群。七十歳になっても、家臣が八人がかりでどうにか動かす巨大な手水(ちょうず)(ばち)を、一人で難なく移動させたというから、(おそ)れ入る。

剣は、「尾張の麒麟児」の異名を持つ柳生連也斎((とし)(かね))に学んだ。相手が殿様でも手加減をせぬ猛稽古に耐えて、新陰流六世の印加を受けた。光友は、この稽古の中から、「浮き足の位(構え)」を編み出したといわれ、これだけみても力量のほどが知れよう。

 もともと尾張藩は、藩祖の義直いらい宗矩(むねのり)が率いる政治色の強い江戸柳生を凌駕しようと、まさに「君臣一体」となって柳生新陰流を育て、伸ばしてきた。

その成果であろう。兵庫助、連也、(とし)(はる)(とし)(ちか)ら柳生家の剛の者に混じって、義直をはじめ光友、綱誠、吉通、斉朝、慶勝ら六人の殿様たちが印可相伝を受け、天下に「尾張柳生」の名をとどろかせた。

 こうしたきびしい武芸の稽古や、多忙な政務の合間を縫って光友は、夏になると待ちかねたように水泳を愉しんだ。幼いころは勝川や矢田川へ毎日のように出かけた。

 後年になって、知多郡馬走(まは)()(現・東海市)の海岸に御殿臨江亭(別名・横須賀御殿)を建て、海水浴に興じた。

こんなエピソードが残っている。

 参勤交代で江戸にきたときに決まって泳ぐ場所。それは、何と江戸城のお堀であった。

 「おいおい、見てみろ。堀で泳いでいる、あのお侍」

 「警備のご家来衆だろうか、堀端に何人かの侍たちが怖い顔をして見張っているぞ」

 「なんでも尾張藩のお殿様、光友公だってさ」

「うへぇ。御三家筆頭の殿様がねぇ」

物見高い江戸っ子たちが、ワイワイいいながら集まってくる。これに気をよくしたのか、

光友は水の上に浮かべた膳の上の馳走を立ち泳ぎしながら、ほおばって見せる。

 「こりゃ愕いた。すごい殿様もいたもんだ!」

 目を丸くする江戸っ子たち。たちまちヤンヤの声援を送ったのは、いうまでもない。

 マルチな′友は、こうした体育系だけではない。分系にも存分に才能を発揮した。

 まず書では、好学で知られた後西天皇、関白近衛信尹(のぶただ)と並んで当時、三蹟といわれるほどの能筆家であった――。

 光友は、定家様の書ばかりでなく、絵画にも優れた才能を発揮した。狩野派に学んだといわれる水墨画は、歴代藩主の中でも一、二を争う腕前である。

 前述した横須賀御殿で、八月十五夜の月を詠んだ和歌の書のほかに、重要美術品の山水図、南宋時代の名画を手本にした「踊布袋図」などの殿様芸術≠ェ徳川美術館に保管されている。興味をお持ちの方は、ご覧になれる機会もあろう。

 そのほか、茶事や管弦の分野にも通じ、能楽をことのほか愛好したという。



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