第二代藩主の光友は、「生まれながらの武芸者」といえる素質を持っていた。体力抜群。七十歳になっても、家臣が八人がかりでどうにか動かす巨大な
剣は、「尾張の麒麟児」の異名を持つ柳生連也斎(厳包)に学んだ。相手が殿様でも手加減をせぬ猛稽古に耐えて、新陰流六世の印加を受けた。光友は、この稽古の中から、「浮き足の位(構え)」を編み出したといわれ、これだけみても力量のほどが知れよう。
もともと尾張藩は、藩祖の義直いらい宗矩が率いる政治色の強い江戸柳生を凌駕しようと、まさに「君臣一体」となって柳生新陰流を育て、伸ばしてきた。
その成果であろう。兵庫助、連也、厳春、厳周ら柳生家の剛の者に混じって、義直をはじめ光友、綱誠、吉通、斉朝、慶勝ら六人の殿様たちが印可相伝を受け、天下に「尾張柳生」の名をとどろかせた。
こうしたきびしい武芸の稽古や、多忙な政務の合間を縫って光友は、夏になると待ちかねたように水泳を愉しんだ。幼いころは勝川や矢田川へ毎日のように出かけた。
後年になって、知多郡馬走瀬(現・東海市)の海岸に御殿臨江亭(別名・横須賀御殿)を建て、海水浴に興じた。
こんなエピソードが残っている。
参勤交代で江戸にきたときに決まって泳ぐ場所。それは、何と江戸城のお堀であった。
「おいおい、見てみろ。堀で泳いでいる、あのお侍」
「警備のご家来衆だろうか、堀端に何人かの侍たちが怖い顔をして見張っているぞ」
「なんでも尾張藩のお殿様、光友公だってさ」
「うへぇ。御三家筆頭の殿様がねぇ」
物見高い江戸っ子たちが、ワイワイいいながら集まってくる。これに気をよくしたのか、
光友は水の上に浮かべた膳の上の馳走を立ち泳ぎしながら、ほおばって見せる。
「こりゃ愕いた。すごい殿様もいたもんだ!」
目を丸くする江戸っ子たち。たちまちヤンヤの声援を送ったのは、いうまでもない。
マルチな′友は、こうした体育系だけではない。分系にも存分に才能を発揮した。
まず書では、好学で知られた後西天皇、関白近衛信尹と並んで当時、三蹟といわれるほどの能筆家であった――。
光友は、定家様の書ばかりでなく、絵画にも優れた才能を発揮した。狩野派に学んだといわれる水墨画は、歴代藩主の中でも一、二を争う腕前である。
前述した横須賀御殿で、八月十五夜の月を詠んだ和歌の書のほかに、重要美術品の山水図、南宋時代の名画を手本にした「踊布袋図」などの殿様芸術≠ェ徳川美術館に保管されている。興味をお持ちの方は、ご覧になれる機会もあろう。
そのほか、茶事や管弦の分野にも通じ、能楽をことのほか愛好したという。