モノづくり王国物語


第十章 トヨタの発展 (2)

喜一郎は、父の佐吉から「お前は発明よりも経営の勉強に力を入れよ」と指示されていた。豊田紡織に入社早々から利三郎と一緒に欧米視察をさせられたのも、そのためであった。

だが、発明のオニの血を引く喜一郎は、機械への熱情抑えがたく、「G型織機を完璧なものにしたあと、自動車の国産化に全力を挙げよう」と心に誓ったのである。

先に佐吉の項でも触れたが、この新型機は縦糸が切れると自動的に運転が止まり、横糸がなくなると自動的に糸が補給されるという、まさに夢の織機≠ナあった。

大正十五年(一九二六)一月、愛知県刈谷に実験用の紡績工場が完成。当時、世界屈指の織機メーカーであった英国のプラット・ブラザーズ社の紡績機二万台と、G型織機五二〇台を導入し、本格的な営業試験が行われた。(この工場はのちに豊田織機株式会社刈谷工場と名づけられる)。

 喜一郎は、ここで佐吉の有能な部下だった技術者らと自動織機の改良に取り組み、初年度には六千台を受注。昭和十六年(一九四一)までに六万台を生産した。

この功績が認められ、喜一郎は帝国発明協会から恩賜記念賞を授与されている。

大正十五年には、刈谷工場の隣接地に豊田紡績の織機製造部門を分離して株式会社豊田自動織機製作所が設置された。利三郎が社長、喜一郎は常務に就任し、いよいよ経営の第一線に就くこととなった。

この会社がインドのボンベイに輸出した自動織機がプラット・ブラザーズ社の目にとまり、特許権譲渡の申し入れがあった。

 渡米中であった喜一郎は、急遽英国へ渡り、昭和四年(一九二九)の十二月にプラット社へ十万ポンド(当時の邦貨で百万円)で譲渡する交渉をまとめた。

 この金額は、その後の行き掛かりで多少減額になったものの、佐吉が昭和五年十月三十日に亡くなる前に「喜一郎、そんなケチのついたカネなら、自動車研究の資金にするがいい」と、言い遺したという。

 話は戻るが、米国滞在中の喜一郎は、特許関係の交渉は部下に任せっきり。もっぱら自動車や機械工場を見て回ったという。

 プラット社との交渉を終えた喜一郎は、きっと「これで織機については一段落ついた。つぎはいよいよ自動車だ」と決意を新たにしたことであろう。



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