モノづくり王国物語


第十章 トヨタの発展 (1)

一、「独力でやる」DNA

 

 トヨタ自動車の現会長で、初代プリウス開発責任者であった内山田竹志は、ことし二月中旬に開かれた「アジアものづくりサミット」で、こう基調講演を行った。

 『トヨタ自動車はベンチャー企業として始まり、たゆまぬ努力で新しい商品や技術をつぎつぎ投入し、発展してきた歴史がある。明治の発明家豊田佐吉は後年、いまだ実現していない飛行機を飛ばせる電池を目指した。トヨタ創業者の豊田喜一郎は「自動車産業を興して日本を豊かにする」と、とてつもない志を持った』(平成二十七年三月九日付中日新聞)

 確かに、佐吉は外国の技術にいっさい頼らず、独力で世界一の自動織機をつくり上げたし、この遺志を継いだ喜一郎は他社のように先進諸国の技術の模倣でなく、純粋に自動車の国産化に挑んだ。夢の実現にかけた、まさに当時のベンチャー企業でなくて、なんであろう。

 このDNAが、世界に先駆けてハイブリッド車(FV)や燃料電池車(FCV)を発売した原動力になったことは間違いあるまい。

 では、喜一郎がとてつもない志≠抱いたのは、いつごろだったのだろう。

 一説では、佐吉が勲三等瑞宝章を拝受した昭和二年(一九二七)十一月、自宅で祝宴を催したとき、長男の喜一郎に「いま日本で走っておる自動車は外国車ばかりだ。わしは織機を発明し、特許を受けて金をもうけて国に尽くした。この恩返しに、お前は自動車をつくって、お国のために尽くせ」と繰り返したときだといわれる。

 しかし、これより先の大正九年(一九二〇)に東京帝国大学の工科大学(のちの工学部)を卒業した喜一郎は、父が経営する豊田紡織に入社。翌年の七月から二月まで利三郎夫妻とともに欧米視察へ赴いた。

このとき、先進国では自動車がもはや大衆の乗物になっているのを目の当たりにし「これからは自動車の時代になる」と、強い関心を持った。

そして帰国後、父親のG型自動織機の完成に努めるかたわら、自動車の国産化に向けて意欲を燃やしつづけるのである。



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