配転


配転 (2)

 新聞業界では、昭和五十年代の初めごろから制作技術革新の大波が押し寄せ、どの社でも福田泰治のように活版関係の社員が長年勤めた職場や職位から去らねばならない悲劇が起きた。このコンピューターをフルに使った紙面編集技術は、CTS(Computerised Typesetting System)と呼ばれ、まず朝日、日経をはじめとする全国紙が先鞭をつけ、ついですべての新聞社へと広がっていった。しかし、CTS化にともなう配置転換は、活字を扱う活版職場の人たちだけではなく、実は澤野のように編集局の者にも、その余波が及んだのである。

 澤野が東西新聞に入社してから二十三年目にあたる昭和五十三年一月のことであった。当時、整理部で政治、経済、外電などの紙面を扱う硬派のデスクを担当していた澤野はある日、夕刊最終版の終了後、上野編集局長から別室へ来るよう呼び出された。

 ――例の件だな。

 澤野はすぐに推測がついた。かねがね整理部の先輩で制作局長に転じている巌谷から「CTSに移るさいの労務問題を処理するため、制作部長として、ぜひ来てほしい」と再三打診があったからである。というのも、澤野は二年前に東西新聞労働組合の委員長を一年間務めて労務問題に通暁しているうえ、消滅職場となる活版部門とも職務柄、接触が多い。願ってもない人材であったのである。

 澤野は迷いに迷った。部長に昇任する魅力は多少あるとしても、誇り高き編集局の中枢的な部署を離れて、他の局に移るのはなんといっても侘しい。新聞社に入り、編集一筋に仕事をするのが生涯の夢であったから、まるで都落ちの気分である。

 しかし、朝刊担当のときには、きまって夜明け近くの帰宅となり、このところ病弱な妻、美佐子の身体も耐え切れられなくなっている。昼と夜が逆転した徹夜勤務は、本人ばかりでなく、その家族、わけても妻に大きな健康上の犠牲を強いる。その点、制作部長になれば毎日夕方の定時に帰ることができ、美佐子のためには好ましかろう……。

「どうだい、澤野君。制作局に移る件は。弱ったよ。巌谷さんから、きのうもしつこく頼まれてな。こちらは君を手放したくはないのだが……」

 予想どおり、配転の話であった。だが、澤野は上野のこのひとことで即座に異動を承諾した。

 偏屈の虫がうずいたのである。本心から自分を手もとに置いておきたいのなら、いくら懇願されても申し出を即座に拒否し、そんな話はおくびにも出さないはずである。単に儀礼的に困ったふりをされるのなら、真っ平である。

 ――士は己を知る者のために死す。

 澤野は、三顧の礼をもって迎えてくれる巌谷の下で働く決意をした。

 

「澤野君。そのスタイル、よく似合うじゃないか。ま、いろいろの思いはあるだろうが、ひとつよろしく頼む」

 着任の日、胸に名札をつけ、糊でばりばりするブルーの作業服をまとい、あいさつに訪れた澤野を見て、巌谷が一瞬ニヤリとしかけた顔を慌てて引っ込めて、つづけた。

「俺も初めのころは面食らうことばかりだった。要は一刻も早く現場に溶け込むことだ」

 その言葉のとおり、澤野は勤務時間など比較的にルーズであった編集局とは、がらりと違う制作局のしきたりや雰囲気に戸惑い放しであった。整理記者時代や組合の幹部のときに、ある程度のことは承知しているつもりだった。が、実際に内部へ入ってみると、あまりの違いに驚き、息苦しささえ感じた。

 当時の制作局は、活字の鋳造から新聞の印刷まで人手のかかる典型的な労働集約職場であったから、九百人になんなんとする人員を擁しており、軍隊のような厳しい規律がないと、管理できなかったのは無理からぬことであった。

 とはいえ澤野は、タイムレコーダーを毎日のように押し忘れ、職場体操はいつまでも覚えられず、指定場所以外でタバコを吸って煙たがられ、定時になってもさっさと帰らないので、部下たちからひどく鬱陶しがられた。

 部長会は、まるで外国にでもいるようなありさまであった。印刷部長や技術部長らから、テンションバランスがどうの、ギヤマークがどうの、ニッピングがどうのと言われても、まったくちんぷんかんぷん。傍らの庶務部長に「あれ、どんなこと?」と訊いてみると、「さぁ」と小首をかしげられ、「理解できないのは俺だけじゃないんだ」と、胸を撫で下ろす一幕もあった。

 そんなとき、ちらりと巌谷局長の方に眼を向けると、すました顔をしてしきりに頷いている。「このタヌキ親父め」と、そのしたたかさに舌を巻いたものである。

 澤野が真っ先に苦労をしたのは、実は得意の労務問題でも、新技術の教育でもなかった。A社がひと足先にCTSへ移行した有利さを利用して、新聞の一段15字を14字とし、文字を大きくして読みやすくすると発表したのだ。

 新聞業界に衝撃が走った。活字組みのままであった東西新聞も、お手上げの状態となった。コンピューターを使うCTSなら、自由自在に字数を減らしたり増やしたりすることができるが、鉛活字ではそんな芸当はできない。まず活字を鋳込む鋳型をメーカーに発注し、それから何十万本もの大小の活字を、短期間に鋳造せねばならないのだ。A社が古い活字体制のままの他社を揺さぶるために仕掛けた戦略であることは、見え見えであったが、東西新聞は歯を食いしばっても、A社同様の14字にみごと変換し、読者離れを食い止めねばならない。

 ところが、ほぼ全国の新聞社から二、三社しかない鋳型メーカーへどっと注文が殺到したから、たまらない。生産が追いつかず悲鳴を上げるメーカーへ、新聞社からは「もっと早く作ってくれ」「なんとか納期どおり収めよ」と強い圧力がかかる。ついにはヤミ値も噂される騒ぎとなった。

 澤野も責任上、メーカーへのあらゆる伝手を頼み、直々会社へ乗り込んで、泣いたり脅したりし、どうにか期日までに間に合わすことができた。こうした苦労は、13字のとき、もう一度体験させられたが、編集にいたら想像もできぬ裏方の仕事であった。

 

 東西新聞のCTS移行計画は、三段階に分かれて進められた。まず時間的な制約の少ない家庭・文化面などの特集面を手始めに、ついで地方版、最後に一般ニュース面という順序でコンピューター編集化された。むろん、最終段階にいたるまでは、活字組みとの並行作業は残ったが、徐々にその比重が減るにつれて、活字を組む部門や鋳造する分野の人たちの配置転換、肩叩きが始められた。

 いよいよ澤野の出番である。そのころには労務担当の局次長になっていたが、配転計画はうまくいって当たり前。あちこちで提訴問題が起き、組合側と衝突するようになっては澤野らの責任問題となる。だが、どううまく運んでも、出される方も受け入れる側も百l満足できるはずはないから、双方から恨まれる、ひどく割りの悪い役であった。 

 澤野ら配転担当者は慎重を期した。実際に肩叩きを始める前に、先進各社へ辞を低くしてそのやり方、苦労話などをお伺いに行ったり、新聞協会の労務委員会で報告される各社の実情に耳をそばだてたり。事前の勉強もぬかりなく行った。

 澤野にとって幸いであったのは、人事部長兼総務局次長に、神田由紀夫というすこぶる切れ者の同期の男がいたことである。神田は四千人近い従業員の顔はもちろん、履歴や家族の状況まで、こと細かく頭にインプットし、場合によっては所属長よりも部員の事情に通じているといった天才的な人事のプロであった。

 あるとき澤野が神田に、その記憶術を尋ねたところ、

「簡単なことさ。要は人間に興味を持ち、人間を好きになること。それに名前となにかほかのことを結び付け、連想を働かせることだな。たとえば出身校だとか出身地、同じ名前の者などとイメージを重ね合わせて、覚えるのだ」

 と、どこかで聞いたようなことを言って、お茶を濁されてしまったのである。



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