配転


配転 (1)

 

 澤野武は、こんなに居たたまれなく、辛い葬儀に出るのは初めてであった。五十八歳になる今日まで、いくどとなく親類縁者はもちろん、会社関係者の告別式に参列してきた。けれども福田泰治のこの葬儀ほど故人の肉親、中でも夫人に掛ける言葉に窮した経験は一度もなかった。

 おそらく夫人は、会社にやむをえない事情があったことは薄々承知していたであろうが、故人にたいする澤野の仕打ちについて、憎んでもあまりある感情を抱いているに相違ない。

 九月半ばとはいえ、朝から残暑のきびしい日であった。だが、市の郊外に新築されたばかりの葬祭場は、中に一歩足を踏み入れると、ほどよくエアコンが利き、ひんやりとした冷気が礼服の下の汗ばんだ肌に心地よかった。午後一時から始まる三階の式場には、すでに東西新聞の関係者や出入り業者らであふれている。

 香典を納め、記帳をすませたあと、係りの案内で澤野は遺族席に佇む夫人と初めて顔を合わせた。手にした数珠を握り直して、「澤野です。このたびは……」とお悔やみを言おうとしたとき、夫人は口もとに当てていたハンカチをつと離して澤野の顔を睨み、なにか言いたげであった。が、思い直したのか口をつぐみ、静かに頭を下げた。その一瞬、涙で腫れぼったくなった夫人の眼に燃えるような憎悪の光がやどり、細い肩が顫えるのを見た。やはり……。澤野はそう思うと、つぎに言うべき言葉を失い、そのまま逃げるように来賓席へ向かった。故人が病床にあるのを澤野が知ったときには、すでに面会謝絶となっており、見舞いに行く機会を逸したのも、重い心の負い目になっていた。

 三人の僧侶が読経をする間、福田との思い出がヘドロから湧き出る泡のように、つぎつぎと澤野の脳裏に浮かんだ。澤野はそれらをふり払おうと、躍起になってほかごとを考えようとした。だが、あの夜の忌まわしい一件だけは悪霊のようにしつこくまとわりつき、澤野の心を昏く沈めた。

 やがて、本社代表の焼香につづいて祭壇の前に立ち、遺影に顔を背けたい気持を抑えて胸の中で詫びた。かすかに笑みをたたえた遺影は、急性肝硬変で倒れる前に撮ったものらしく、釣り灼けなのか、アルコール灼けなのか、少々黒ずんだ顔をしていた。

 

「君にはこんど製作工程委員会の委員になってもらう」

 ひとしきり世間話をしたあと、澤野が福田にそう告げたのは、葬儀から遡る一年半ほど前のことである。福田はその瞬間、不意に脳天をバットで一撃されたような衝撃と苦悶の表情を見せ、ごくりとひとつ息を呑みこんだあと、

「と、ということは、現在の活版部長を辞めろ、ということですか」

 そう訊きなおしながらテーブルに戻そうとした盃が顫え、膝に酒がこぼれた。

「ま、そういうことになる」

「なぜです。この私がなにか大きなミスでもやったというのですか」

「いや、違う。そんなことではない。……な、君。俺の言うことをよく聞いてくれ」

「聞くもなにも、それじゃぁ、まるきり左遷じゃないか」

 濡れた膝頭を拭おうともせず、こんどはうめくように言った。

 会社の裏手にある古びた寿司屋の二階に福田を呼び出したのは、四月人事がいっせいに内示される三月二十日過ぎの、ひどく底冷えのする夕方であった。会社の連中がちょくちょく顔を出す店なので避けたかったのだが、付けが利く気安さと、場所の分かりやすさを優先させたのである。

 福田は活版部長を二年務め、そろそろ局次長か局次長待遇へ昇進の声がかかるころと心待ちしていたのが、逆に思ってもみない閑職へ追いやられることとなり、よほどショックが大きかったのだろう。それ以後、澤野の話にはまったく耳を貸さず、眼の前の二合徳利から手酌でお猪口に酒を注いでは、せかせかとあおった。そのたびに口の端から酒がよだれのように顎へ伝わった。

 そのうち突然、角張った顔をゆがめ、

「お、俺は東京の家を売り払い、このN本社で骨を埋める覚悟で、これまでの十三年間、一生懸命やってきた。……それなのに……かあちゃんや家族に合わせる顔がない」

 と、一言ひとこと喉の奥から搾り出すような声で言い、嗚咽を始めた。

 学卒者ではなく腕一本できた、いわゆる叩き上げの中では才覚があり、出世頭の福田だが、澤野はまさかこれほどまでに動揺し、取り乱すとは予想外であった。

「君の言うことは、よく分かるし感謝もしている。しかしな。さっきも言ったように、これからは活字で新聞紙面を組み上げていた時代は去って、すべてコンピューターでつくる時代に変わる」

「局長さん。それはもうとっくに東京本社で始まっていることだし、いまさら言われなくたってよく分かっている」

 福田はテーブルの隅に置いてあったお絞りを乱暴につかみ、顔を拭った。

「そういう時代に、叩き上げのこの俺では部長の職務は勤まらないということなんだな」

 それには直接答えず、澤野はつづけた。

「泰さん。コンピューター編集時代になると、活版印刷時代の仕事はいっさいなくなる。つまり、記者の書いた原稿どおりに活字を拾う文選工や、編集者の指示によって一ページの紙面に組み上げる大組み工、さらには、そうした活字を鋳造する部署も、すべて姿を消すのだ」

「………」

「ということは、そこで働く人が職を失うということになる。といって、クビにするわけにはいけない。会社にとっては、長年の功労者なのだからな」

 澤野はそこまで一気に言ったあと、ぐいのみの酒をひと息に呑み干した。冷え切った酒が胃の腑にしみる。

「俺は前任地の東京本社で、いやというほど経験してきたのだが、消滅職場を持つ局の幹部、わけても部長は、部員たちの配転先を人事部といっしょになって探し、受け入れ側に頭を下げて了解を取り、さらには本人を説得せねばならない。それはもう大変な仕事なのだ」

「………」

「それだけじゃない。従来の活版工程と並行してコンピューターによる制作体制を着々と整え、残る若い連中には新しいシステムの勉強を、びしびしさせねばならない」

「そういう仕事は、この俺には無理だというのか」

 福田は、血筋の浮いた眼で澤野を睨み返した。

「コンピューターを扱う仕事に適応できない人たちは、不本意な部署へも強制的に移ってもらったり、辞めたい者には退職金が割増になる勧奨退職制度を勧めたりせねばならん。泰さん。あんた、きのうまで長くいっしょに仕事をしてきた仲間たちに、そうした非情なことができるかね」

「………」

 その後、澤野は小一時間ほど辛抱強く説得をつづけた。しかし福田は、とうとう最後までウンと言わず、テーブルの上に突っ伏して、子どものように泣きじゃくっていた。

 澤野も辛かった。できることなら、こんなむごい人事は避けたかった。福田は一昔以上も前に東京本社から、ここの本社に転勤してきていらい仕事一途に励み、ブルーカラーあこがれの部長のポストについた。それが、わずか二年でその職位を剥奪されることになるのだ。

 福田の心情を考えると、つい挫けそうになる。だが、社の大事業達成のためには、ときに相手がだれであろうと心を鬼にも蛇にもせねばならない。澤野はその夜、福田を置き去りにする形で寿司屋をあとにした。

 四月人事はこうして、福田の同意を得られないまま発令された。噂によると、福田はその夜、自分の部下たちも出入りするスナックに現れ、大荒れに荒れたという。そのため、発令のかなり前からこの人事が洩れてしまい、局の内外から、ひどい顰蹙をかう結果となった。

 後任には編集局整理部の次長が充てられた。しかし、福田は部長業務の引き継ぎをボイコットしたばかりか、二週間以上も会社を欠勤し、怒りと不満のすさまじさを露わにした。 

 その後は、酒浸りのすさんだ生活となった。もともとアルコールにはさほど強くなかったが、毎夜のように居酒屋やスナックを梯子してまわり、ついには死にいたる肝硬変を招いたのである。

 

 福田は、腕のいい大組み工であった。整理記者の指示に従って、活字をまるでぴちぴちした生き物のように扱い、リズミカルに一ページの紙面に組み上げる腕前は、まさに名人芸であった。大組みの途中で急遽突っ込むニュースにも厭な顔ひとつ見せず、「これが新聞ってもんさ」と進んで組み直しをした。当然、整理記者からは引っ張りだことなり、中には福田に大組みをしてもらいたいばかりに、陰でこっそりタバコや映画の招待券などを渡したりする記者もいたほどである。

 新聞記者の修業は、ギルド社会そのものであった。記事の書き方も見出しの付け方も、紙面のレイアウトも、いっさい先輩からの教えはなく、マイスターたるデスクから怒鳴り散らされ、なんども書き直し、やり直しをさせられながら覚えたものである。たまに先輩に教えを乞うても「自分で覚えろ。他人のノーハウを盗め」と、そっけなくあしらわれるのが、関の山であった。

 そんな中で、福田は駆け出しの整理記者をいびって面白がる他の大組み工と違い、澤野はむしろ、この福田から新聞大組みの基本を直々教えてもらったほどであった。

 人と人との間に、不思議な運命の糸が絡み合うことがあるとすれば、澤野と福田もそのような間柄であったかもしれない。澤野は二十数年に及ぶ整理記者生活の間に生涯忘れることのできない世紀の大ニュースに遭遇したが、その紙面の大組みも実は福田の手によったのである。

 

 昭和三十八年十一月二十四日の未明のことであった。当夜、朝刊一面を担当していた澤野はデスクに坐り、刷り上がってきたばかりの最終版に眼を通していた。編集局内は、部ごとに当直者が居残り、いっときの喧騒が去って、がらんと静まり返っている。社会部や校閲部では、一升瓶の栓を抜きかけた者も、碁盤を取り出そうとする者もいる。

 そのときである。

「おい、澤ちゃん。APから至急報が入っているぞ」

 連絡部の篠田が、澤野に向かって突然大声を張り上げた。

「至急報だって? 中味はなんだ」

 受信機からチンチンと鳴りながら、吐き出される電文をひったくるようにして見た篠田が叫んだ。

「ケネディ米大統領が撃たれ、重傷のもよう。おお、UPIからも同じ電文が流れている」

「な、なんだって。ケネディが撃たれた?」

 澤野が手にしていた刷り出しの朝刊を傍らに投げ棄て、隣の連絡部へ走り寄った。他の各部の連中もいっせいに立ち上がる。信じられない思いであった。ケネディはこの日、ダラスで演説し、世界最強ロケットを打ち上げるとぶち上げて、一面に二段扱いで載せたばかりなのだ。

「追っかけ版、A版の用意だっ!」

 一面のどこかへ記事を叩き込まねばならない。できれば、でかでかとトップに。澤野が紙面を睨み、印刷局デスクへ連絡しようと電話を取り上げたとたん、また篠田が怒鳴った。

「ケネディは死んだぞ」

「なに、死んだ? おい、輪転機を止めるぞっ!」

 無我夢中だった。澤野は編集局長席の背後の壁に取りつけられている非常ベルの下まで突っ走った。つま先立ってボタンを押した。ぷるぷると指先が顫える。とたんに耳をつんざくようなベルの音が全社内に響きわたった。局の責任当直になっている家庭部の次長は、すべて澤野に任せっきりといった感じで、整理部の周りをうろうろしている。

「なんだ、どうした!」

 印刷から、販売から、発送から、関係する各局、部の責任当直者が色めきたって、つぎつぎ駆けつけ、澤野の周囲を取り囲む。

「印刷部さん。これまで刷った部数は?」

「約五万部」

「よし。発送部さん、それは全部出してくれ。いま、午前四時十分か。A版の降版時間の目標は四時四十分。活版部さん、文選と大組みの用意」

 てきぱきと澤野が指示を出す。

「連絡部さん。外電と外報部からの原稿は、全部俺のところへ持ってきてくれ。それに局長や幹部への緊急連絡も頼む。資料部さん。ケネディの雁首(顔写真)を出して製版部へ持っていってくれ。寸法は十三倍のマルだ」

 そう言い置き、澤野は一階下にある活版部への階段を一散に駆け下りた。こんなとき、原稿をいちいちベルトコンベアで運んでいたら、とても間に合わないのだ。

 と、文選の原稿仕分け台のところで待機していた福田泰治が困惑した顔で言う。

「澤さん。見出し鋳造機の火が消してしまってある。これから点火していては時間がかかる。活字は非常用の棚にしまってあるのを使ってくれませんか」

「そうか。仕方がない」

 

  米大統領、暗殺される

       ダラスで パレード中、銃弾浴びる  

 

 澤野は、篠田から手渡されたAP電を読んで文選工に手渡し、突っ立ったまま六段抜きの見出しを走り書きした。非常用活字の中で最大の十倍サイズの文字を使う。

 ところがであった。活字を収納してある金属製の棚の引出しが一部錆びついてしまって、どうしても開かない。ふだんは滅多に使わない活字だから、そうなったのだろう。

「澤さん。この暗殺の暗の字がない」

 文選工が情けなそうな声を上げる。

「仕方ない。使えない文字は九倍のを代用しよう」

 文字が大小ちぐはぐの見出しとなるが、やむを得ぬ。

「さぁ、福田係長。大組みを始めるぞ」

 新聞を一ページに組み上げる鉄製の大組み台上に、活字が並べられたころ、澤野ががんばろうとでも言うように右手の拳を高く差し上げた。

 ――一面トップにするのが当然なのだが……。

 澤野は、歯軋りする思いであった。この日のアタマ記事は、前日開票された総選挙結果の分析であった。時間から見て、トップから組み替えていたら、読者のもとへ新聞が届くころには夜明けをとうに過ぎてしまう。やむなく澤野は準トップに見出しと二十行足らずの記事を組み入れた。

「憲法の規定により大統領の職務は、ジョンソン副大統領が代行することに……」

 あとからあとから、細切れ的に続報が入る。が、時間の制約があり、涙を呑んで見送らざるを得なかった。

 その紙面が刷り始められたころ、編集局長が上着とネクタイを小脇に抱えたまま「おーい、みんな。ご苦労さん」と大声を張り上げながら、局内に飛びこんで来た。つづいて局次長や外報、社会部長などの幹部連中が、ぞくぞくと息せき切って駆けつけて来る。

 こうして、東西新聞の最終版の大半に世紀の大ニュースが載り、他紙を完全に圧倒した。澤野は入社して初めて編集局長賞を手にしたのである。

「泰さん。一杯飲みに行こうや」

 なにをおいても、あの日に活版作業で世話になった福田に礼をせねばならない。澤野はその夜、福田を誘って痛飲したのだった。



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