名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語


第八章  悪夢再び(一)

 

南陽館は、年号が改まった大正元年(一九一二)九月末に、ほぼ九分どおり完成した。当時の新聞は、『見上ぐれば五層の飛閣雲中に聳え、(れん)(ぽう)(ほう)(よく)を垂れ、木曽檜の垂木輝々として清香を放ち、壮観言う許りなく真に東洋一の阿房宮とはなるべし……』とたたえている。

また、才吉のアイデアで実用化された山田式料理運搬用エレベーターのテスト運転も上々で、「これだけでも客を呼べる」と、話題を呼んだ。

一方、水族館へ数週間前に入った二頭のアザラシも元気を回復して、愛嬌をふりまき、内藤勉技師など「これを公開するつぎの日曜日には、見物客が殺到しますよ」とほくそえんでいた。

そのまさに当日の九月二十二日――。早朝からどんよりした雲が空を覆い、昼ごろには不気味な千切れ雲が北西へ向かって流れ始めた。それとともに時折つむじ風が舞い、大粒の雨が断続的に地をたたくようになった。

「せっかくの日曜日というのに、最悪だな」

 久しぶりに自宅で昼食を摂ったあと、才吉は庭の縁側に突っ立ち、真っ暗な空を見上げながらぼやいた。

「あんた。いい機会よ。きょうぐらいゆっくり休みなさいよ。ほらほら。早く戸を閉めないと、雨が降り込むじゃない」

居間の中から、なつがとがった声をかける。

「ひょっとすると、これから暴風雨になるかもしれんな」

 台風という言葉もほとんど使われておらず、まして予報などなかった時代。暴風になるかどうかは、勘に頼るよりなかった。

「南陽館もあと一歩で完成というところだ。なんとか穏やかにすんでほしいものだ」

 そんな会話を交わしているところへ、また強い風を伴った豪雨が襲ってくる。

「なつ。これから築地へ出かける。南陽館が心配だ。人力車を呼んでくれ」

「あんた。馬鹿なこといわないで。こんな日に人力車が走れるもんですか。電車だって運休するかもしれないし」

「人力車には、たんまり足代を払えばいい。それに電車運休の知らせはまだきてないぞ」

「きてなくたって、むりよ。お願いだから出かけないで」

 そうこうしているうち、夕方近くにいったん小降りになっていた風雨が午後九時ごろから再び烈しさを増し、電車が止まり、電話も不通となった。翌日の未明近くになると最大風速四〇・三b(伊勢湾台風は四五・七b)という猛烈な暴雨風雨が中京地区一帯に吹き荒れた。さしもの頑丈な才吉の邸宅もきしんで、薄気味悪い音を立てて揺れる。

「神さま、仏さま、南陽館だけはなんとか……」

 この夜ばかりは才吉も、ふだんそれほど手を合わせたことのない神棚と仏壇に向かって、ほとんど一睡もせずに無事を祈りつづけた。

この夜、南陽館に居残り、危うく命拾いした大工らの話によると、猛台風にあおられ、最高潮位四・六五b(伊勢湾台風は五・三一b)にも達した海水は、午前二時ごろ護岸石堤を突き破り、東築地一帯を直撃した。

南陽館の屋内に流入した水は、軒を没するほどになり、そのうえ堀川河口の貯木場に係留してあった材木が、まるで綱を解き放たれた猛牛のように暴れまわり、南陽館へぶち当たった。

しかし、場所柄、雨戸を二重にするなど、あらかじめかなりの風力にも耐える堅牢な設計をしてあったこの館は、初めのうちはびくともしなかった。

ところが、最後の仕上げ前とあって、館内の戸に(かんぬき)を施してなかったのが、致命傷となった。午前四時ごろ、三階南側の雨戸が一枚吹っ飛んだのが引き金となって、一気に吹き込んだ風が見る見るうちに四階の天井を吹き飛ばし、全館をぐらぐらと揺さぶって、さしもの高楼もあえなく倒壊した。

涙を誘うのは、当夜同館に泊り込んでいた棟梁たけさんの弟子の大工六人である。揺らぎ始めた建物を見まわるため、いずれも高みに上った瞬間に館が崩落し、その下敷きとなって圧死したのである。

(暴風雨の襲来がもう三日遅かったら……)

才吉は、無念さと悔しさに胸をかきむしり、天を仰いで号泣したい思いであった。

一方、教育水族館も押し寄せた流水によって竜宮館や水槽など心臓部となるほとんどの設備が破壊された。ただひとつ幸いだったことは、前日の正午前に閉館して見物客をいち早く帰したあと、内藤技師ら従業員の全員が唯一残った本館の二階に避難して、ひとりの犠牲者も出さなかったことである。

「旦那。こんなことになり、まことに申し訳ありません」

たけさんは犠牲者の収容が一段落し、被災現場で行われた通夜の席上、才吉に向かって深々と頭を下げた。

「なにをいうか、たけさん。あんな暴雨風雨じゃぁ、どうしょうもない。だれの責任も問えぬ天災だ。それよりも、犠牲になったあんたの弟子たちの使命感には、まったく胸をうたれる。施主としても、できるだけのことはしたい」

「旦那にそういっていただけると……」

 たけさんは無骨な手で涙を拭った。

「わしわな。こんなことぐらいで、くじけたりはせん。缶詰工場の機械類はダメになったが、運よく建物は倒壊を免れた。なーに。機械類は更新の時期にきていたから、どうってことはない。豊浜と鳥羽の両工場は、たいしたことはなかったようだしな」

「………」

「簡易宿舎も少々手を入れれば使える。わしはいずれ、東陽館のときのように、多少規模は縮小しても、あの南陽館も水族館もみごと再建して見せてやる。ほれ、人間万事塞翁が馬っていうじゃないか。たけさん、そのときはまた力を貸してくれよ」

 そういって才吉は、数珠を掛けた棟梁の手を力いっぱい握り締めた。

 

 当時の新聞によると、熱田と東築地方面の被害が大きく、眼を覆う惨状を呈した。中でも熱田羽城町の一帯は、家屋の軒まで濁水が押し寄せ、床上三尺(約九〇a)以上の浸水家屋が二千戸に達した。濁水の引いたあちこちに水死者の遺体が横たわり、泥の中から首だけを出した犠牲者の姿も見られ、その数は二十九人に及んだ。

 名古屋市では、ただちに市長が陣頭指揮を取って熱田円通寺に対策本部を設け、四日間にわたって被害者の救出、炊き出しに当たった。

 九月二十五日付の名古屋新聞は、築地方面の惨禍を概略つぎのように現地ルポしている。

『最初に石堤が決壊した箇所では、熱田線電車の線路が洗い流された土の上に、まるで(ゆみ)(づる)のように連なり、木曽谷の吊り橋のように渡れる。また、第二の決壊場所では電車の線路は跡形もなく缶詰工場の養魚池を呑み込んだ濁流は、今なお堀川口へ流れ出ている。

石堤の上に立って水族館通りをながめると、地面という地面に流失物が累々と横たわる。ほとんどの家は全半壊するか流出し、屋根が飛んでしまった家があると思えば、屋根だけ残って、中が筒抜けの家もある。

水族館の魚槽を入れるガラス張りの小箱が五、六丁も流れてきて、ところどころに転がっている。通りの商人たちは、みんな一物も持たず避難して辛くも命拾いしたが、家はつぶれ、家財もなくなって茫然自失の状態。あたりは静まり返っている。

築港事務所が五、六十人の作業員を使って復旧に努めており、他方山才氏が悄然として女性従業員らを自ら指揮して、南陽館の倒壊家屋の後片付けをしているのが人目を引く』

 ルポはこのほかにも生々しい被災地の様相を伝えているが、才吉が災害直後の現地に赴いて復旧作業の陣頭指揮をしている状況が特筆されているほか、山才の名がすでに一般市民の間に周知されている点が注目される。

「悄然として」と書かれているが、記者の眼にはそう映ったのであろう。

(なぜおれは、二度もこんな目に……)

このとき才吉の心には、先に火災によって焼失した東陽館の悪夢が追い払っても追い払っても襲いかかり、いくたび呻吟したことであろう。

こんども水族館にいくらかの保険金を掛けてあったとはいえ、南陽館は完成間際だったために正式契約をしておらず、またしても莫大な損失を蒙ってしまったのである。

だが、ここで自分がくじけてしまったら、なつをはじめ家族はむろんのこと、たけさんらにも二度と立ち上がれない打撃を与えてしまう。そんなことは断じてできぬーーそんな強い思いにとらわれていたのだった。



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