名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語


第七章  雲を衝く楼閣(一)

 

今でこそ水族館といえば、だれでも知っている。わけても名古屋港水族館は、世界一大きいといわれる水槽で展開されるシャチやイルカのパフォーマンスや、ペンギンのよちよち歩きなどが人気を呼び、土・日曜日や祝日ともなると家族連れや若者たちのデート・スポットとして行列の絶えぬ盛況ぶりである。

けれども、才吉が水族館の開設を思いついた明治の末期のころは、水族館というとスイドウカンと聞き違えられるような時代。いちいち根気よく説明せねばならなかった。これを逆にいえば、だからこそ珍しがられて人集めには絶好の施設と才吉は読んだのだろう。

その手始めに才吉は、工事関係者らを集めた「水族館の視察団」を結成した。そして自ら団長となって、まず東京は上野の動物園を訪れた。

えっ、動物園? と不審がられそうだが、それも当然。明治天皇のご臨席のもと動物園が開場した明治十五年(一八八二)三月二十日から半年遅れて、同じ園内に「観魚室(うおのぞきしつ)」と銘打たれた魚類の観賞室が併設されていたからである。

この日本最初の水族館は、長方形になった建物で、建坪一七・五坪。内側の一方が壁で、もう一方がガラスをはめ込んだ壁水槽の観覧窓になっていた。

「水槽の中は、意外に明るいな。泳いでいる魚の姿がわりによう見える」

そう声を上げたのは、コンクリートの建造物をつくる職人、後藤鍬五郎。

「なるほど。室内は照明を消して暗くし、水槽の中へは外から自然の光が差し込むように工夫をしてあるから、水槽内がくっきり見えるんだ」

観覧窓のガラスに額をくっつけて、のぞき込んでいた鍛冶屋の下村清三郎が解説をする。

「うーむ。これではだめだ」

一行の後ろから爪先立って見ていた才吉がつぶやいた。

「えっ。だめ? どうしてですか?」

愕いて問い返す下村に才吉がこたえる。

「ここの水槽は、循環装置がないようだ」

「循環装置と、いいますと?」

「水を機械的に濾過してきれいにする装置で、これがないと汲み置いた海水を汚れたら取っ替え引っ替え、大変な手間がかかる。おそらくここの海水は、満潮時の隅田川あたりから汲んできているのだろう」

「へぇ、そういうものですか……」

「それに、こういう止水飼育は肝心の魚が長生きしない。東築地につくるわが水族館は、ぜひ循環式にしたい」

多忙な才吉がいつの間に、これほど勉強をしたのか、みんなが顔を見合わせた。それを見た才吉が、ちょっぴり得意げにつけ加えた。

「実は、あんたたち知っての、あの築地の缶詰工場の近くには、新鮮な魚を確保するためイワシやカレイ、ハマチなどの養魚場がつくってあってな。その飼育に散々苦労をした話を、小耳にはさんでいるのだ」と。

 

つぎに訪れた浅草水族館は、明治三十二年十月にオープンした日本で四番目となる水族館で、完全に営利目的のものであった。のちの話になるが、ここの二階は軽演劇の劇場となっていて、あのエノケンこと榎本健一のカジノ・フォーリーが昭和四年に旗揚げしたところといわれる。

いかにもエノケンらしいエピソードをひとつ。ある日こっそりと下の水槽に降りてきて、中にいるうまそうな魚を金づちでポカリ。そして、おっ、魚が死んでるよ、と何食わぬ顔をして、そいつを刺身にして食べてしまったとか。

またこの水族館は東京名物のひとつとなり、あのノーベル賞作家の川端康成が大のファン。初期の浅草ものの「浅草紅団」をはじめ「水族館の踊り子」「浅草の姉妹」「浅草祭」「浅草の九官鳥」などの舞台となっているのは、一部好事家の知るところである。

さて、才吉。この水族館を念入りに見てまわるうち、ふと明治三十年に神戸の和田岬で開かれた第二回水産博覧会を見物しに行ったときのことを思い出した。

まず度肝を抜かれたのが、長崎出島のオランダ屋敷風の瀟洒な水族館。博覧会の付属物で、しかも木造だったが、その堂々としたエキゾティックな外観は、これだけでも客を呼ぶ価値があると感心したものである。

さらに、その中に足を踏み入れて愕いた。海水魚や淡水魚の展示水槽のほかに、円形プールやジオラマまであり、魚を飼育する水は循環濾過され、その中にエアを吹き込むために石油発動機まで使われていた。

(飼育技術も進歩したものだ)

しきりに感嘆する才吉の目の前で、こんどは飼育員が水槽の中になにか液体を注入し始めた。

「なんです? その液は」

身を乗り出して見る才吉に飼育員がこたえた。

「これは明礬(みょうばん)飽和材といいましてね。水槽の中の濁りを取るのですよ。ほら、見ててご覧なさい。だんだん澄んでいくでしょう」と。

そしてさらに、ここの水族館では和田岬沖で採取した海水を、いったん濾過したあと濾過槽の底に敷いてある細かい砂でもう一度浄化する。この砂によって微生物も混入され、水が腐らないようしているという話も聞いた。

このときの記憶をたどりつつ浅草水族館を見学すると、和田岬水族館で行われていた技術がすべて採り入れられ、そのうえ営業上、規模も大きくして十五の水槽、九百石(一六〇d)もの貯水槽が備えられていることも分かった。

才吉は、ひととおり見学がすんだあと、浅草の料理旅館で開いた慰労会で一行にこうハッパをかけた。

「いいか、諸君。東築地につくるわが水族館は、浅草ごときに負けぬ立派なものにしたい。ここに居並ぶ諸君は建築も左官も超一流の者ばかり。改良すべき点は、一目で分かったはずである」

 これを聞いて、全員がふるい立った。棟梁の武部などは酒をあおった口もとを手で拭いながら、まくし立てる。

「大将から写真を見せてもらったオランダ屋敷風の和田岬水族館。そんなものよりもっとハイカラなのを、息子の賢

介につくらせましょう。おっ、そうだ。入り口には竜宮城のようなものをおっ建て、中に入ると水槽がぐるりと取り巻く、ほれ、パノ、パノ……なんとかいったな」

「パノラマか」

「おう。それそれ。壁際に置かれた水槽をまるで汽車の窓越しにのぞいて歩くような方式じゃなく、一望のもとに見渡せるような剛毅なやつを……」

「面白い。ぜひやってみようじゃないか」

根が派手好きな才吉、すぐさま賛成した。だが、腹の中では、とうに織り込みずみだったのである。

 

たけさんこと武部慎吾は、九代目伊藤平左衛門の弟子だったのが自慢のたね。伊藤平左衛門家は、初代が名古屋城築城に加わったのをはじめとして代々宮大工の棟梁をつとめる全国のいわば元締めのような名門。九代目は京都・本願寺の御影堂(親鸞上人の像を祭る建物)を十五年の歳月をかけて明治二十八年に完成させている。この御影堂は畳の数が九百二十六畳。一度になんと五千人が参詣できる世界最大級の木造建造物である。

また十代目は東京・日本橋の白木屋百貨店を手がけたことでも分かるように、西洋風の建築にも並々ならぬ腕と見識を持っている。

このような伊藤家の系譜を受け継ぐ宮大工だけに、たけさんの仕事は手堅く精緻、才吉の大のお気に入りである。たけさんに任せた東陽館が焼失したとき、才吉は単に大きな財物が失われたのを惜しむのでなく、名古屋が誇る貴重な現代の文化財のひとつが姿を消したことに、深い悔恨の念を抱いたのであった。

そのたけさんの息子、賢介が手がける竜宮城なら、きっと人々を驚嘆させる面白いものをつくるに違いない、とご機嫌なようすの才吉を見て、たけさんがいった。

「帰ったらすぐ賢介に竜宮城の模型をつくらせてみましょう」と。

ちなみに、宮大工とは正式にいうと堂宮大工のこと。堂がお寺、宮が神社を指すことでも分かるように、普通の建築と違って木柄(きがら)の大きい、つまり大きな木を使って大きな建物をつくる大工さんと思えばいい。

したがって、修業といっても、そんなに多くの建物をつぎつぎに手がけるわけにいかないから、本物と寸分違わぬ模型をつくって、天竺様(大仏様)だの唐様(禅宗様)だの、両者の折衷様だのの細かな建築技法を学ぶという。

こうした事情に通じた才吉だけに、すぐ注文を出した。

「十分の一くらいの模型をつくってくれ。パノラマ水槽の水まわりの工夫は、鍬五郎さんにやってもらおう」



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