名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語


第四章  雄飛のとき(一)

 

「口は禍の門」という。明治二十四年(一八九一)十二月二十二日、ときの海軍大臣、薩摩出身の樺山(かばやま)(すけ)(のり)は、海軍が要求する軍艦の大幅建造予算にたいして、衆議院の民党(野党)が「海軍部内の腐敗を正さねば認めぬ」と主張するのに激昂し、こう演説した。

「議員諸君は薩長政府をののしるが、わが国が今日あるのは、薩長政府のおかげではないか」と。

 世にいう、この樺山蛮勇発言に議場は騒然。民党は、当初の軍事費削減額七百九十四万円をさらに九十八万円上乗せして八百九十二万円減らす予算案を可決してしまった。

 これに対抗して松方正義首相は、憲政史上初めて議会を解散。事態を憂いた元老、山県有朋は腹心の内務大臣品川弥二郎を呼びつけ、「少数与党では、なにもできぬ」と、なりふり構わぬ選挙干渉を指示した。

 こうして行われた翌二十五年の第二回衆議院議員総選挙では、知事、郡長、市長村長や警察などが官僚組織を挙げて、民党へ烈しい妨害工作を行った。板垣退助の郷里高知や大隈重信の佐賀県を筆頭に、全国で二十五人の死者(ほとんどが民党の運動員)を出すほどであった。だが、結果は民党が逆に過半数を越す百六十三人を獲得し、吏党(与党)は百三十七人にとどまった。

 愛知県では、立会人が投票箱のカギを持ち逃げして大騒ぎになったくらいで、おおむね平穏だったが、東海地方では、ねらい撃ちされた自由党系の大物、三河の内藤魯一や三重の栗原亮一が板垣退助の応援も空しく、落選した。

 余談だが、愛知県令のとき地租の引き上げに猛反対する春日井郡の農民たちを徹底弾圧した安場保和は、福岡県知事として、この選挙でも目に余る選挙干渉を行い、そのほとぼりをさますため、再び愛知県知事に任命された。だがこれを不服として赴任せず、十八日後にクビとなった。

 こうした状況を新聞や噂話で知るたびに、才吉の義侠心、正義感に火がついた。もともと才吉は、板前修業に上京した折、その道すがら目にした薩長政府軍の乱暴狼藉に憤慨して掴みかかろうとしたり、瀬戸でウナギ屋を開いたさいには、新政府のあこぎな地租改正に義憤を感じて、農民の抗議集会へ支援の蒲焼を届けたりしたほどであった。

 また大須門前町の時代には、常連となった自由民権運動の壮士たちが酒を酌み交わしながら、ときに夜を徹して闘わす議論の中に分け入り、商売を忘れて論陣を張ったものである。

 J・J・ルソーの『民約論』を知ったのもこのとき。J・S・ミルの『自由の理』の思想にもふれたのも、このときであった。さらに、内藤魯一から借り受けたH・スペンサーの『社会平権論』の翻訳本に魂を奪われるほどの感銘を受け、「民衆や社会のため、政治にも携わりたい。商売だけがおれの生きる道ではない」という信念がしだいに芽生えてきたのも、この時期であった。

 才吉は、()()にも従業員にも内密にして政治活動を始めた。幸い喜多福も缶詰の製造販売も順調にいっている。開業したばかりの東京支店も、軌道に乗りかかっている。たびたび外出したって、三、四日家を空けたって、だれも不思議に思わない。

 まだ正式な自由党員にはなっていなかったが、名古屋の拠点に顔を出して論陣に加わったり、ときには心ばかりの資金援助もした。そして、奨められるまま政談演説会の弁士となって、たまらなく魅力を感じたこと、それは演壇に立って聴衆を沸かせる弁舌の面白さであった。

 もともと大勢の愛好者の前でいくどとなく義太夫を語った経験があるから、アガルなんてことはない。義太夫の場合には台本があり、それに従って語ればいいから、言葉に詰まって立ち往生なんて醜態は演じなくてすむ。

ところが、演説はそうはいかない。事前に当局へ届け出ておく演説の大要は頭の中にあっても、義太夫のような台本がないので、ときには脱線して立ち会い警察官の「弁士注意!」の制止や、猛烈な野次にも即応できる柔軟さと度胸とを持ち合わせねばならぬ。

それが、逆に才吉にはこたえられない魅力となった。なんども場数を踏むうち、義太夫同様「間」の大切さも知ったし、娘義太夫がサワリの部分で()()()とかんざしを落とし、のぼせ上がった学生連中を狂喜させような、話のヤマ場をつくるコツも会得した。口髭を立派なカイゼル髭に仕立てたのも、このころであった。

しかし、隠しごとは往々露見するもの。明治二十五年の年も押し詰まった十二月二十日の夜。才吉は、ちかくの末広座で開かれた政談演説会に参加した。ここで、五人の弁士のうちのひとりとして、「営業税に断固反対」を叫んだまではよかったが、他の八木重治らふたりの弁士が先の選挙大干渉にふれて「狂気の官憲弾圧」と叫んだため、たちまち弁論中止を命じられた。

このとき、怒った満員の聴衆が総立ちとなり、こぶしを振り上げて、「官憲横暴!」と唱和し、末広座は開場いらいの騒ぎとなった。

これが翌日の新聞に載った。

「あんたもこの演説会で、ぶっていたのね」

 朝の食事のとき、三面に記された才吉の名前を指差して、()()が意外にも穏やかな顔をしていった。

「おっ、新聞に載ったか」

 半分照れ隠しのように口ごもる才吉に向かって()()がおっかぶせた。

「あんた。わたしがやめろっていったって、やめる人じゃないでしょ。この間、町代さんにそれとなく相談したら、いってたわ。いいじゃないか、山才さんは、それで商売を駄目にするような、やわな人間じゃないからって……」

 妻が政治活動に理解があるかないかで、気合の入れ方もずいぶん違ってくる。その後、才吉は一段と精力的に動きまわるようになった。

こうして才吉は、その弁舌と行動力、それに並外れた着眼点と財力。これらを兼ね備えた自由党系では得がたい人材として、しだいに頭角を現わし、明治二十六年六月十一日に発足した名古屋自由会では、有力幹部のひとりに選ばれたのである。

この自由会の論議の中で、才吉は内政問題だけでなく、外交問題とりわけ対清国、対ロシアの政策に強い関心を持った。そのころ、ロシアはシベリア鉄道を建設して、不凍港を求める南下政索をとり、清は朝鮮における権益を維持するために強硬策を執りつづけ、その植民地化をねらう日本と、ことごとく対立していた。

清とは明治十八年(一八八五)に結ばれた天津条約(朝鮮から軍隊の相互撤退、出兵する場合の事前通告)によって、どうにか力の均衡が保たれてきたが、政治、貿易両面でしだいに日本の地位が弱まるにつれ、国内では「清国討つべし」との強硬論が支配的になってきていた。これに対して民党は、政府の弱腰外交を攻撃しつつも、「民力休養、政費節減」を叫んで、軍備強化に伴う増税、国民生活への圧迫を警戒した。

こうした状況下でも才吉は、缶詰を海外で大いに売ろうという野心に燃え、築地の工場を拡充する一方、東京にも支店を設けた。状況しだいでは大阪にも支店を置く構想を練っていた。

ところが、ハワイ・南洋諸島向けはもちろん、清や朝鮮へ輸出をしようとすれば、その成否は当然のことながら、国際情勢に大きく左右される。

新聞の報道によると、海軍はすでに軍艦三十一隻、水雷艇二十四隻を保有し、陸軍も管内防衛を主任務とした六鎮台・一近衛を外征向けの六師団と近衛師団に改変し、増強している。さらに、この年、二十六年五月には戦時大本営条例まで公布された。

(これは間違いなく臨戦体制だ)

そう判断した才吉は、輸出向けの缶詰を軍用にする製造体制に切り替えた。万一、清との戦争になれば、缶詰は軍の糧秣(りょうまつ)として必需品になるのは必定だからである

 翌年、正月の松飾りが取れるのを待つようにして才吉は単身、東京へ向かった。ねらいは、四年前に神田須賀町に設けた支店を拠点にして、新しく神田美土代町に新支店と工場を設置するためであった。支店と工場は、隣接していた方が万事好都合なのだが、須賀町にはもはやその土地が確保できなかったのだ。

 あらかたの構想は、支店の責任者、鈴木正吾に指示をしながら進めてきた。だが、総仕上げはやはり御大のお出ましが必要だ。

「正吾、ようやった。年内に清と戦争になれば、ここの工場から第一師団へ納品できる」

 アメリカ製の缶詰製造機が三台据えつけられ、最終調整に入った工場のようすを満足そうに眺めて、才吉がいった。

「おかげさまで機械の搬入もうまくいきまして」

「そうだったな。戦争を当て込んで、日本から注文が殺到して、機械の奪い合いになったが、その点でもお前はうまくやってくれた」

「いやぁ、大将にそういわれると照れます」

 苦労を重ねたせいか、痩せて小じわのふえた顔をほころばす正吾を見て才吉は、つくづくこの男を東京の責任者にしてよかった、と思った。第一師団の糧秣担当への売り込みも、この正吾の才覚によるものだ。

「いいか、正吾。売り込みには『抱かせる、飲ませる、握らせる』の三セルがあるというが、相手はお堅い帝国軍人。うっかりしたことはできんぞ。もっとも、そのための実弾は惜しまぬけれどな」

 あるとき才吉が、老婆心からそれとなく忠告をすると、正吾は笑ってこたえたものである。

「ははは。軍隊に実弾ね。心配いりませんよ、大将。まずなにをおいても品質で勝負。あとは押しと、ひたすら誠意。女を口説くときといっしょです」と。

 この正吾、そうはいうものの、浮気をするどころか女房一筋。東京へも三歳の男の子と、女の乳飲み子と一家四人で赴任してきて、一度も里帰りをしないで頑張っている。    

「ときに大将。清と年内に戦争になる確かな根拠でもあるのですか?」

 改まって尋ねる正吾に、才吉がきっぱりといった。

「とくにない。けれども軍事予算は年々膨大になっているし、軍部は清とはむろん、ロシアとの戦争も考えているな、と確信したことがあった」

「へぇ、それはいつのことで?」

「明治二十三年の春、天皇の親臨の下で初めての陸海軍連合大演習が名古屋を中心に開かれた。その規模の大きさ、実戦さながらぶりから、こいつは対外戦争を想定しているな、と判断したのだ」

 

 これでひとまず体制が整った。第一師団や第三師団からかなりの軍用缶詰の注文があっても、どうにか応じられるはずだ。才吉は、東京から帰りの列車の中でほくそえんだ。

 しかし、いずれハワイ・南洋方面へも輸出をしようとすれば、大阪に支店と工場を新設せねばなるまい。その責任者をだれにするか。資金はどうするのか。あれこれ思案し始めると、ゆったりとした一等車の中で、ひさしぶりにまどろむ愉しみも吹っ飛んでしまう。

 大阪へは喜多福の番頭、鈴木米次郎の下で最近めきめき腕を上げてきた副番頭格の男を充てればいいだろう。両親が河内の出身というのも都合がいいし、ソロバンも達者だ。

 では、資金は? こんども名古屋銀行に掛け合って融資をしてもらおう。この銀行は滝兵右衛門ら近郊商人グループが中心となって、明治十五年に設立された中小商工業者向けの金融機関だけに、前途有望な缶詰製造業には理解があるはずだ。

 だが、帰名して()()にその構想を打ち明けると、()()浮かぬ顔をしていった。

「あんた。名古屋の人たちの財産三分主義っての、知ってるでしょう?」

 以前、築地に工場を建てようとして名古屋銀行から融資を受けたさい、()()がしたり顔でいった言葉であるし、先刻承知しているのだが、才吉はすっとぼけて聞き返した

「なんだっけ、財産三分主義って」

「そら、やっぱり忘れてる。なにか事業をしようとするとき、全財産を注ぎ込むのは危険だから、三分の一は土地などの不動産を買う」

「なるほど」

「あとの三分の一は株券とか流動資産に投資し、残りの三分の一で事業を始めようという考え方よ」

「ふーむ。堅実そのものだな」

「女のわたしが男の仕事に口出しするわけじゃないけど、缶詰の事業にそんなに注ぎ込んで大丈夫なの?」

「お前の心配は分からんわけでもない。だが、おれはそんなチマチマしたことは大嫌いだ。やるときゃぁ、思い切って、どかんとでっかいことをやる。そうでなきゃぁ、いつまで経っても名古屋は東京、大阪の後塵を拝し、肩を並べることができん」

「………」

 その後()()は、いっさい仕事には口出しをせず、前にもまして明るく家事に励むようになった。

というのも、大須ちかくの小間物問屋に嫁いだ()()の姉の骨折りによって、年内にも遠縁の娘()()を養女に迎え、その後愛知郡岩塚村の若者木村銀次郎を婿養子とする話がほぼ固まりかけていたからである。

 才吉は、こうした家庭内のことには、もっぱら女房任せ。「お前さえいいのなら」という態度を貫いたのである。

 

 明治二十七年(一八九四)八月一日、日清戦争が勃発――。八ヵ月間にわたるこの戦いを一口でいえば、朝鮮の植民地化をねらう日本と、属国としてきた朝鮮の権益をあくまで守ろうとする清国との衝突であったといえよう。

 そのきっかけとなったのは、この年五月に朝鮮の農民宗教団体である東学党が反乱を起こし、朝鮮政府が宗主国の清に出兵を求めたことから。日本は、派兵の要請がないのにもかかわらず、公使館と在留邦人の保護を名目にして、ただちに出兵。欧米諸国の動静を見守りながら、日清両国による朝鮮の内政改革を提案した。

 しかし、清に拒否されると、日本単独の改革を主張して清との戦機をうかがった。そして七月十六日、日英通商航海条約が調印されるやいなや王宮を占領し、豊島沖で清国艦隊と交戦。八月一日に宣戦を布告したのである。

 陸海軍ともに装備・訓練にまさる日本軍は、装備・指揮命令系統のばらばらな清国軍を終始圧倒。黄海海戦に勝って制海権を奪い、朝鮮半島の成歓・平壌を占領して鴨緑江を渡河した。このあと旅順要塞を一日で落とし、遼東半島を制圧した。

 東海地方を管区とする名古屋の第三師団(桂太郎師団長)に動員令が下ったのは八月四日。山県有朋を司令官とする第一軍に組み込まれた。当時、第三師団に属していたのは名古屋の歩兵六連隊と金沢の同七連隊と八連隊。八月下旬からぞくぞく朝鮮半島と満州(中国東北部)へ派遣された。

 師団は厳寒の原野で烈しい戦闘を行い、この年十二月十九日は、『歩兵第六連隊歴史』によると、「途中道を失い、いまだ夕食を喫していない部隊も多く」「この日凍傷にかかる者、わが師団において一、〇六二人に達した」ありさまであった。つまり食糧補給と軍装備などの兵站(へいたん)が不充分だったため、名古屋地域から出征して亡くなった八十人のうち病死が六十四人と、実に八〇lを占めた。

 また、陸軍の兵士の主食が白米であったため、出征兵士十二万余のうち約四万人が脚気にかかり、その病死者は戦死者の数よりも多かったという。当時陸軍軍医総監であった森鴎外が脚気の原因を細菌であるという伝染病説に固執していたからだといわれる。実際、麦飯主体の海軍では脚気の患者がほとんど出なかった。

(せっかく栄養豊富な缶詰を献納しながら……)

才吉は後になって、この話を聞き、地団太を踏んで悔しがった。しかし、陸軍は糧食の重要性を再認識し、日露戦争では大いに缶詰の活用を図ったわけだから、才吉も以って瞑すべきかもしれない。



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