名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語


第一章  先見の明 (一)

 

  どうせやるなら/でかいことなされ/奈良の大仏 八つ裂きに……

山田才吉、人呼んで「(やま)(さい)」は、酒こそさほど強くなかったが、晩年にほろ酔い機嫌になると、好んでこんなデカンショ節を口にした。

 そして、さらに興がのると、

♪拙者が天下を取った暁は安土の城も腰抜かす どでかい城をばおっ建てて……

 とかなんとか、若いころ通いつめた娘義太夫のくどきらしい一節を、首をふりふり、唾をとばしてうなったものである。

才吉は嘉永五年(一八五二年)八月十九日、美濃国厚見郡()()()村(現在の岐阜市大仏町)で料理屋を営んでいた山田辰次郎、()()夫婦の長男に生まれた。

この村はご存知、山頂に岐阜城をいただく金華山のふもと、長良川左岸にある観光地。近くには織田信長の屋敷があった千畳敷(現在の岐阜公園内)や、岐阜大仏で知られる黄檗宗正法寺がある。この大仏は、竹で編んだ籠に写経の紙を貼り、その上に漆と金粉を施した、いわゆる乾漆仏ながら座高は13・7b。奈良、鎌倉と並んで日本三大大仏のひとつとされる。

このように、信長が天下取りの起点とした岐阜城を朝夕に仰ぎ、巨大な岐阜大仏の膝下で遊び戯れ、雄大な長良川の流れの中で泳ぎに興じる――。そんな幼少時の環境が、きっと才吉を気宇壮大な男に育てたのであろう。

それかあらぬか、「将来きっと日本一の料理屋をつくってみせる」と大見得をきって、家を飛び出たのは、満十四歳になった慶応二年(一八六六)の初秋。幕府が長州再征に失敗して二百六十年にわたる威信を失墜させ、豊橋の近辺から端を発した「ええじゃないか」の熱病が東は江戸、西は広島近くまで蔓延していた幕末の騒乱期であった。

ただでも血の気の多い才吉が、こんな時期におとなしく片田舎におさまっているはずがない。両親が懇請する店の跡継ぎは弟の芳吉に任せ、包丁一本さらしに巻いて向かった先は江戸であった。

その後、めまぐるしく変転する文明開化の東京で十年近くに及んだ板前修業が、才吉の将来の人格形成にどれほど大きな影響を与えたか量り知れない。生来、己のことをあまり語りたがらぬ才吉だが、後年、芸者をはべらせ、ご機嫌になった酒の席で、たまさか懐かしげに洩らすのは、この修行中に目をかけられた江戸火消しの大親分、新門辰五郎のことであった。

当時の板場は、きびしい階級社会。関東ではこの職場を取り仕切る一番の頭が花板((しん)ともいう)。その下が煮物を担当する煮方。以下「焼方」、「盛り方」、「立洗い」、「下洗い」、「追いまわし」の順になる。

一口に煮方といっても、「煮方十年」といわれるように、ここまでたどり着くだけでも容易でない。けれども、根が器用で万事にそつのない才吉は、品川の宿を手始めに二、三の料亭を転々とし、三年を経たあとにはもう浅草界隈でも五指の中に入る料亭「松葉屋」の焼方にまで昇進していた。その上の煮方になれば、いっぱしの料理職人として扱われる。

料理の世界も月並みなことをやっていては競争に勝てないーーそう信じる才吉は、焼方の仕事をしつつ暇さえあれば保存食、わけても香の物の改良・工夫に打ち込んだ。そして花板の治一をうならせたのが、ナスやウリを糠や酒粕でなく味醂粕に漬け込む新案の香の物であった。

「おっ、こいつはいける。よし。こんど食通で知られる神門の親分が来られたときに、出してみようじゃないか」

治一の思い入れで、待つこと二日。店の上得意になっている辰五郎の宴席にさっそくこれを添えて出すと、一口口に入れた親分が、たちまちご機嫌な顔になっていった。

「おい、女将。こんな小粋な香の物は初めてだぜ。シャキッとした歯ごたえと、ほのかな酒の香り。これをつくった板さんの顔が見てぇ」と。

なにかお叱りでも受けるのかと恐る恐る座敷に上がり、平身低頭する才吉と付き添いの治一に、親分はあれやこれや漬け方などを訊いたあと、「なにか変わったものを出してやろうという、その気性が気に入ったぜ。これ、取っときねぇ」と、びっくりするほどの祝儀をはずんでくれた。

「さすが、将軍慶喜公の側室に娘御を出され、身の周りの警護もされた親分のなさることは違うぜ」

四分金を拝みながら、しきりに感服する治一。これがきっかけとなって才吉は、浅草・上野地域を縄張りに三千人もの子分を抱える神門一家の食事の賄い方の手助けに、ときおり出向くこととなったのである。

朱に交わればなんとやら。義侠心にあふれる才吉が男伊達・任侠の世界に惚れ込み、両腕に鮮やかな彫り物をするにいたるのは、自然といえば自然な成り行きだったろう。

後年になって、この刺青を羞じた才吉は夏でも長袖の下着を着て、絶対に人目にふれさせなかったという。才吉がのちに名古屋瓦斯の常務を務めたとき、その下で働き、大正十一年に東邦瓦斯の初代社長となった岡本桜の伝記にもこの事実が記されているから、まんざら間違いでもあるまい。

ちなみに、小泉純一郎元首相の祖父で、昭和の初めの浜口雄幸内閣のときに逓信大臣を務めた又三郎は、全身に昇り竜の彫り物をし、「刺青大臣」、「人情大臣」と国民に人気があった。とび職の家を継ぐためにやったようだが当時はヤクザでなくても、少々威勢のいい若者の中には、刺青、つまりタトゥーをする者がかなりいたといわれる。

こうして才吉が松葉屋の板場で煮方に昇進し、花板の代理も務めるようになった明治七年(一八七六)の初夏のころ。故郷の母()()から「腎臓を患う辰次郎の容態が悪化しあすも知れぬ状況になった。お前はもう二十四歳。嫁のこともあるし、早く富茂村へ帰れ」という手紙が届いた。

東京はあくまで料理の腕を磨き、社会勉強をするだけの場。そろそろ郷里へ帰って、自前の店を持ちたいと考えていた才吉にとっては、踏ん切りをつける、いい機会でもあった。

「そうかい。あんたにはいずれ花板になってもらおうと思っていたのだが、そんな事情があるのなら仕方がない」

しきりに残念がる松葉屋の主人に別れを告げ、「親父、なんとか生きていてくれ……」そう念じつつ才吉は、中山道を急いだ。

どうしても親父に勝てなかった包丁さばきを、板場修業で腕を磨き、見返してやろうーーそんな思いがあっただけに、いっそう心がはやった。

しかし、家に着いたとき、辰次郎はすでに息を引き取ったあとであった。

(もう少し早く帰り、一目なりと東京で鍛えた腕の冴えを見せてやりたかった)

才吉は、人目もはばからず号泣した。



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