名古屋のどえりゃー男 山田才吉物語


最終章  大仏に抱かれて(一)

 

大正十四(一九二五)年は、才吉の家庭生活においてもひとつの転機となる年であった。一月十日に三女の幾久子が生まれ、十一月二十日にはよねとの婚姻を届け出。同時に三人の娘たちも正式に才吉の籍に入れられた。このとき才吉七十三歳、よね四十一歳。

(これで娘たちも日陰の子でなくなる)

才吉は、長らく背に負ってきた重荷から開放される思いであった。

才吉がたまたま家にいるとき、長女の寿恵子が友達にいじめられてか、よく泣きながら帰ることがあった。よねがいくら理由を訊いても、首を横にふってこたえない。いじめの現場を見ていた近所の人に尋ねても、口を濁してなにもいわない。

よねはそのわけを察していた。寿恵子を抱き寄せ、泣きやむまでやさしく頭をなぜてやった。理由は簡単、「妾の子、妾の子」とはやされたのである。だがもう、そんなおぞましい思いは二度としなくてもいいのだ。

公職から離れても才吉は相変わらず、昼間はほとんど家にいなかった。大仏や、ときには北陽館の建設現場に出かけているのだ。けれども日が暮れると、そそくさと家へ帰り、三人の娘たちといっしょに食事をしたり、お手玉をして遊ぶのが、なによりの愉しみとなったのだ。

その娘たちに、絶対に見せてはならないもの、それは両腕の鮮やかな彫り物である。この若気の過ちのため、どれほどその後の人生に負い目を感じ、後悔のほぞをかんだことであろうか。

全身に昇り龍の彫り物をし、逓信大臣にまで上り詰めて、のちに「いれずみ大臣」の異名をとった小泉又次郎の例はある。だが、もう堂々と世間に通用する時代ではなくなっていた。

余談になるが、才吉はこの義理人情に篤い大衆政治家、小泉又次郎の大ファンであった。年齢は一まわりほど下になるが、境遇がすこぶる似ている。又次郎の父親はトビ職人。妻は芸者で子どもに恵まれず、養女をもらったが愛妾が実の娘を生んだ。のちにこの娘婿になるのが政治家の純也。純也の息子が元総理大臣の純一郎である。

それはともかく、大仏の建立は、わが国初めての人工石による工法であるため、懸念されたとおり思いも寄らぬ手間と時間がかかった。梅雨時にはほとんど工事ができず、夏場の乾燥期も人工石が早く固まり過ぎるので、好ましくない。

もっとも泣けたのが台風の時期だった。なにせ天気予報のない時代。ものがでかいだけに、風が吹き荒れ始めた中で全面に覆いをかけるのは、至難の業である。

起工式から一年ほど過ぎた五月中ごろのこと。いよいよ大仏の頭部を載せる日がやってきた。上野村とその周辺から集められた左官や大工、雑用係、それに聚楽園の旅館で作業員専用の料理をつくる調理人まで全員が駆り出され、このもっとも厄介で神経をつかう作業に当たった。

ところが、頭が載った姿をひと目見た才吉が開口一番、怒声を張り上げた。

「こりゃぁ、あかん。頭が小さ過ぎて神々しさがない。壊してつくり直しだっ!」

 

「旦那さん。仏像づくりには多少自信のあったわしですが、あんな不出来なことをやりまして」

才吉が頭部のつくり直しを命じてから十日ほど経ったころ、山田光吉親方が聚楽園にいる才吉のもとへ改めて詫びに来た。

「いやいや。あの手の工事は、一発ではいかぬもの。そんなに気にすることはない」

「実はあれから、懇意にしている奈良の仏師のところへ行きましてね。いろいろと専門的な立場から助言をしてもらいました」

「ほほう。それはご苦労さん。で、どうだったかね?」

「仏像づくりには膝の高さや胴、首、肩の幅などの長さに一定の基準があるそうで、それに従ってつくれば、バランスのいい像ができると」

「なるほど、なるほど。といって、分かったようでよう分からん話だが……」

苦笑する才吉に親方は、出されたお茶でおもむろに喉を潤してから、ゆっくりとつづけた。

「その基準を考えたのが、旦那もご存知。京都・平等院鳳凰堂の国宝、阿弥陀如来坐像をつくった定朝(ていちょう)

「おお。知っているとも。平安時代中期に活躍した有名な仏師だ」

「そうです。その定朝が寄木つくりで仏像を大量生産するため、だれがつくっても均整の取れた仏像ができるように、多年の経験から各部位の最適な長さの基準を割り出したのです。これを定朝の法則とか、定朝様式といって……」

「まだよく分からんところがあるが」

「たとえば、膝の高さは、白毫から地までの高さを六等分して、そのひとつにするとか。要するに、仏像の大きさの基準を頭のてっぺんから地までとするのではなく、髪の生えぎわから地までの高さ、つまり(はつ)(さい)(こう)とする新基準をつくったのです」

「へぇ。髪際高ねぇ。そいつは知らなんだな」

「この基準が日本人の好みに一番合ったもので、定朝以来の仏師はほとんどみな、この様式の沿った比率と技法を使って仏像をつくっているのだそうです」

「すると、定朝様式は千年もつづいているってことか」

「旦那。わしは鎌倉の大仏に負けぬものをと、鎌倉ばかりに気を取られていましたが、この定朝方式を参考にし、こんどはもっと視野を大きく持って頭部をつくり直したいと思っています」

「そうか。これまで羅針盤のない航海みたいなものだったが、立派な海図も手に入って、さて、出直しってところか。あ、それで親方にひとつ提案がある」

「提案? なんでしょう」

「定朝の法則ってのも大事だが、広い空を背にする大仏さんだ。お顔は基準よりも大きめにした方がいいかも知れんぞ」

「ははあ。なーるほど」

こんどは親方の方が感心をする番だった。

「その方向で、ぜひやり直してみましょう」



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