尾張の殿様列伝


第七章 足元≠すくわれた宗春 (1)

治世三年目の夏がきた――。

 富士見原では、毎夜のように花火が上がり、六月十六日の天王祭(祇園祭=那古野神社の祭礼)には、だんじり(楽車)が堀川に引き出され、まるで津島祭でも見るような豪勢な演出がなされた。

 この年は、盆踊りにも新しい呼び物が登場した。西小路の遊女たちが総出で踊ったのである。竹矢来が組まれた廓の中の舞台や桟敷めがけて、見物客が殺到した。

 このころになると、名古屋の男どもも、ようやく廓の遊びに慣れ、当初は珍しがられた京や大坂、伏見、伊勢あたりからきた他国の遊女は、敬遠され始めた。

 理由は「値段が高いばかり。それより藻かぶり≠ェええ」と。矢頭純著『徳川宗春』によると、藻かぶりとは熱田の沖で獲れた魚のことをいい、脂がのっていてうまく、しかも新鮮。それを地元出身の遊女に引っ掛けた洒落(しゃれ)だとか。
 九月になって、芝居史上にも例のない騒動が持ち上がった。なんと、御三家筆頭の殿様が歌舞伎の主役として演じられたのだ。

 題して『傾城夫乞櫻(けいせいつまこいざくら)』。役者は、市川助五郎、沢村新蔵、嵐七五郎ら当代の一流どころ。主役の若殿には助五郎が扮し、モデルが宗春であることは、だれの目にも分かる。こんなことが果たして許されるのか。みんな固唾をのんだ――。

「市川助五郎も調子に乗ってやり過ぎだ」

 「お咎めを受けて、打ち首かもしれんぞ」

 芝居がはねてから、見物人たちは首をすくめて、ささやき合った。

 ところが、その後なんの罪にも問われず、公演も差し止めにならなかった。それどころか、宗春はある夜、お忍びで芝居見物に出かけ、舞台がはねてから、わざわざ楽屋に顔をのぞかせた。そして恐懼(きょうく)する座長ら幹部役者らに対し、

 「大儀であった。愉快であったぞ」

 と、声をかけたのである。

 「さすがは、わしらの殿様」

 うわさを聞いた領民たちが、手を打って喝采をしたことは、いうまでもない。だが、この芝居、名古屋ではあまり受けなかった。敬愛する殿様を見世物にすることなど、あまりにも畏れ多かったのであろう。

 しかし、京都興行は大当たりだった。きっと京わらべたちは、うわさに聞く反将軍≠フ殿様の傾きぶりを見て、溜飲を下げる思いをしたのであろう。

 

秋になって宗春は、先の岐阜につづいて再び知多郡をまわり、大野(あん)殿(でん)に泊まった。相変わらず行く先々で、沿道の領民たちの目を愉しませ、庶民派≠フ殿様ぶりを演出した。

 頭の固い藩の重臣たちも、この程度のことには、もう慣れっこになっていた。が、初冬を迎えるころになって、幕閣が目をむき、藩の家老たちが寿命を縮めるような、うわさが雷電のように駆け抜けた。

 「いよいよ宗春公が、ご謀反を起こされるげな」

「なんでも、兄君継友公の恨みを晴らすために、公儀と一戦交えられるとか」

 まったく根も葉もない流言とも思えなかった。武家屋敷の動きが、にわかにあわただしくなり、食糧や衣類、弓矢を点検する様子が垣間見え、城内から連日のように鉄砲の試し撃ちをする音がとどろいた。

 気の早い町民の中には、家財道具をまとめ、引っ越しの準備にさえかかる者も現れた。

 実は宗春、このとき吉宗の大好きな鷹狩などという、ちゃちな? ものでなく、大(まき)(がり)をやろうと目論んでいたのである。

 計画を耳にした成瀬隼人正(まさ)(もと)、竹腰志摩守正武、石河讃岐守忠喜(ただよし)らの重臣は、色を失った。

 「公儀に知れたら、な、なんとする!」

 あわてふためいて、鳩首会談を開いた。

 「猶予はならぬ。星野織部を問いただし、即刻計画を取りやめにせねばならぬ」

 これが三人の下した結論であった。いずれも巻狩をやることは聞いていたが、詳しいことは知らされていなかった。

このころになると宗春は、藩政の重要事項について、まれに織部の意見を聞くことはあっても、ほとんど独力で決め、重臣らはツンボ桟敷に置かれていた。

 そして決定事項は、もっぱら織部を通じて藩内に伝えられた。幕府でいえば、側用人に当たる。織部は根が純朴で、主君を心から敬愛しているから、命令に素直に従い、忠実に実行した。

宗春自体も、ありありと面従腹背の態度を見せる藩老たちよりも気心が知れ、信頼の置ける織部を重用するようになっていた。

 そうなると、門閥貴族である重臣たちの不満、鬱屈は積もる一方。攻撃の矛先は当然、織部に向けられる。

 「小普請十人扶持の軽輩から、二年の間に四千石という途方もない高禄を受けるようになった、あやつめに……」

 肚の内は悔しさ一杯であっても、聴取する相手は織部しかいない。

 その織部の説明によると、尾張藩が巻狩を行うのは、初代藩主の源敬公以来のことで、規模は水野山(瀬戸市)を中心に、尾張東北部から木曾谷まで及び、藩士、郎党で一万人、勢子(せこ)を勤める村人まで含めると、二万人は超す大動員だという。

 「な、なに。二万人を超すじゃと?」

 仰天する三人に、織部は平然といった。

 「イノシシ、クマ、シカ、サルなどを追い詰めるには、それくらいの人数は。それに」

 「それに、何じゃ?」

 「殿を守護するため、二十匁筒、三十匁の大筒を持たせた鉄砲隊を侍らせます」

 「大筒の鉄砲隊? ならぬ、ならぬ。それでは(いくさ)ではないか。公儀からは間違いなく謀反とみなされてしまおう。よし、拙者が殿にご諌言申そう」

 もっともうろたえたのは、幕閣と近しいとうわさされる竹腰正武であった。すぐさま主だった家臣たちを集めて、巻狩中止の意見を取りまとめ、宗春にじきじき談判をした。

 「すでに事は決しておる」

 宗春は冷たくいい放った。困り果てた竹腰は、屈辱を忍んで織部に「お主から殿に中止をお勧め願いたい」と迫ったのである。

 

 「そうか。三人がお主にも強談判したか」

 宗春は、すべてお見通しであった。

 「巻狩はやめるといたそう」

 あまりのあっけない返事に、織部は肩透かしを食った思いであった。

 「わしはな、もともと巻狩などに興味はなかったのじゃ。織部には苦労をかけたな」 

 そういってニヤリとすると、宗春はつぎの瞬間もう立ち上がっていた。

 小姓として毎日のように身近に仕え、宗春のことは何もかも知り尽くしていたつもりだった。だが、こんどばかりは織部にも宗春の真意をつかみかねた。

 大掛かりな巻狩は、鷹狩を唯一の愉しみとする将軍に対する当てつけと、当初は推測していた。が、そんな単純、瑣末(さまつ)なことでなく、もっと深い意図があったに違いない。

 とすれば、なにか。

 織部と同じ側近の千村新平によると、藩内では「殿が例により御三家筆頭の地位を楯にして、ことの重要さもわきまえず暴走した」と、こっそりささやいている者もいるとか。この説によると、殿は単なる騒ぎ好きの軽薄な大名になってしまう。ありえぬことだ。

 また同じ側近の一人、旗野弥兵衛が探った情報では、「殿は来るべき幕府との一戦を想定して、大巻狩を口実に武具を整え、戦力の増強を図ろうとした」というものもあった。

 同様に、「木曾へ巻狩をした勢いを背景に、江戸へ攻め入り、幕府の倹約政策の転換を迫る」という、荒唐無稽な風説もあった。

 ――どれも、馬鹿げた推論。

 星野は一笑に付し、考えをめぐらせた。

 幕府は、藩内のいたるところにお庭番を忍ばせ、巻狩のことなど先刻承知していることであろう。それなら、どんな手を打ってくるか、今後のためにも見定める必要があろう。

 一方、一枚岩でない藩の重臣たちが、どう出てくるかを、試してみる好機でもある。

 その場合、幕閣とつるむ家老がだれで、どう動くかも、つかめるはずである。そこまで考えて織部は、はたと手を打った。

 ――(たが)が緩み始めた藩内の気風に活を入れるために企画した大巻狩でなかったか。

 それなら、大方の目的は達成できたし、この段階で中止しても、不都合はない。殿が遊芸ばかりでなく、尚武の気概も持たれた藩主と評価されたい気持は、満たされたはず。

 織部は、得心して満足そうに笑みを洩らした。



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