尾張の殿様列伝


第五章 油揚げさらわれた継友 (1)

正徳三年(一七一三)七月、四代吉通が二十五歳の若さで急逝し、あとを継いだ嫡男の五郎(ごろう)()も、在位わずか二ヵ月足らずで夭逝した。

初代義直の直系がここで断絶。例の御畳奉行、朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記』によると、藩内は立藩以来の一大事と、大揺れに揺れたという。

しかし、幸い吉通の腹違いの弟で五郎太の叔父に当たる松平大隈守(みち)(あき)(のちの(つぐ)(とも))に六代目襲封の幕命がくだり、傍系ながら義直の血統は、保たれることになった。継友の名前は七代将軍家継と、祖父の光友から一字ずつ採った合成≠ナある。(偏諱(へんき)

 トップに立つ者について毀誉(きよ)褒貶(ほうへん)は付きもの。十八代つづいた尾張藩主の中で、継友は地味な存在であるが、方や名君といわれ、方や暗君と称され、あまりにも評価が割れる。

では、まず「名君」のいわれから見てみよう。

十八年間に及ぶ治世のほとんどは、三代綱誠の時代からつづいた藩財政の立て直しに費やされたといっても、過言であるまい。

このために継友は、幼少のころから「性質短慮でケチ」と評された本領? を存分に発揮して、藩政においても徹底的に倹約と節制に務め、享保十三年(一七二八)年には、なんと金一万三千両余、米二万八千石もの黒字を出すにいたった。

その施策の根幹となったのは、現代でいう「小さな政府」をめざす行政改革であった。

就任と同時に御殿奉行を廃止したのを皮切りに、屋形奉行や運上奉行、勝手方吟味役などをつぎつぎとヤリ玉に上げ、享保十二年までに廃止官職十七、新設・再設官職三、差し引き十四の無駄な役≠減らした。

 また、先々代吉通の正室((すけ)(ぎみ))や支族の大久保家、四谷家、川田久保家等に与える給与を削減したり、家臣へ負担を転嫁するなど思い切った手を打った。(もっとも、本家からの仕送りだけが頼りの支藩から、怨嗟(えんさ)の声が上がり、すぐ元に戻したが……)

 こうして藩自らが身を切る思いをすれば、領民も納得して上納金を献上するもの――どこかの政府に聞かせたい話ではある。

 藩の金庫が潤うにつれて、城下にも活気が出、戸数と人口がぐっとふえた。江戸の呉服商三井家越後屋が、念願の名古屋進出を果たしたのも、この享保五年(一七〇七)だった。

 

 つぎに継友が「暗君」と酷評されるゆえんはどうだろう。

 『鸚鵡籠中記』によると、正徳三年(一七一三)十月十九日の晩、上使として訪れた老中の秋元(たか)(とも)から、「宗家の相続が内定したので、今夜から市谷尾張邸へ移るように」伝えられた継友(当時は通顕)は、躍り上がらんばかりに歓んだ。

 そして、さっそく祝宴を開き、側衆、近習を代わる代わる呼んで酒を与え、果ては竹腰壱岐守、大道寺駿河守らの年寄まで酒を下賜するありさまであった。

 この醜態にすっかり興ざめした二人は、早々と退出し、近侍の山寺善左衛門を呼びつけて叱りつけた。

 「若君が急逝されて、藩内が愁嘆する折、かかる酒宴を催すのは、いかがか。先ほど下された酒は、何のいわれがあるのか」

 「そ、それは……」

 言葉を詰まらせ、しどろもどろの善左衛門。

 「よいか。今後かような行跡があれば、側近のお主たちが、きびしく(いさ)めよ」

 竹腰が語気鋭く、決め付けた。

 一方、ふだんの継友について「性質短慮にして種々の狂態を演じ、もって自ら喜びたり」と変人ぶり≠記した『武家勧懲記』のような書物もある。(名古屋市史政治編第一)

 吉宗と将軍職を烈しく争った継友であり、

江戸で書かれた「情報誌」にどれほどの信憑性があるのか、分からないが……。

 藩主就任に狂喜した継友を、あえてかばうとすれば、つぎのような事情があったためであろう。

 江戸時代において大名、武家の次男以下の男子は、「嫡子の予備軍」あるいは「血のスペア」的な存在でしかなかった。分家するか、家臣となるか、他家へ養子に出るか、そうでなければ、「部屋住み」として一生飼い殺しになるか、のいずれかであった。

 しかし、江戸中期になると分家にせよ、仕官するにせよ、経済的な余裕はなくなっており、ひたすら他家から「ムコ殿に」という声がかかるよう、文武に励むしかなかった。

 まして継友の場合は、実質的な次男坊であるから、「おひかえ」として他家への養子に出ることはもちろん、結婚さえ許されなかった。なぜなら結婚して子をなし、一家を構えれば、それは分家になってしまうからである。

 こう見てくると、多くの方々は継友が舞い上がった気持に同情されることであろう。



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