尾張の殿様列伝


第三章 絶倫セレブ″j誠

三代目の(つな)(なり)は、歴代藩主の中でもサラブレッド中のサラブレッドである。なにせ父親は、家康の孫に当たる光友。母親は「生まれながらの将軍」と大見得を切った三代将軍家光の長女、千代姫ときている。それに、四代将軍家綱、五代綱吉を叔父に持つのだから、これ以上の毛並みのよさは望めまい。

また、正室の子が尾張藩主になったのは後にも先にも綱誠ただ一人。どれほど大切に育てられたかは、残されている産着が歴代藩主の中で、綱誠だけという事実でも分かる。

戦国時代以降の武将を含めて産着が現存しているのは、わずか十五領。綱誠のものはその中に四領あり、名古屋市の徳川美術館に行くと目にできる。「薄紅地蓬莱葵紋付産衣(うすべにじほうらい・あおいもんつき・うぶぎ)と舌をかみそうな名前。松・竹・鶴・亀の吉祥文様が地紋となって織り出され、まことに見事なものである。

それほどの綱誠であったが、父親の光友が壮健そのもの、四十三年間も殿様として君臨していたため、実際に藩主になったのは、元禄六年(一六九三)、四十二歳のとき。

しかも、七年後には父に先立って泉下の人となっているので、その治世はわずかに六年余。政治的手腕のほどは分からない。

それかあらぬか、お世継ぎつくりに励み、

十七人の側室に、三十九人の子どもを生ませた(男子二十二人、女子十七人)のは、すでに述べたとおりである。

 ちなみに、この数は尾張藩の藩主では歴代一位。二位は八代宗勝の二十二人。将軍家では十一代の家斉の五十五人が最多である。もっとも、このうち成人したのは男子十三人、女子十二の計二十五人に過ぎず、長男竹千代を含め、その他はみな早世している。

 綱誠が藩主を継いだとき不幸だったのは、藩の財政がきわめて悪く、赤字額が歴代藩主の中でも最悪の状態だったことである。

 先代の光友時代に万治三年(一六六〇)の大火や自然災害が続出したほか、建中寺や興正寺、若宮八幡社の創建、光友の百回近くに及ぶ江戸との往復の経費など、莫大な支出が重なり、さしも天下の大藩も青息吐息の財政状態に陥っていた。

 これに輪をかけたのが、元禄十一年(一六九八)三月の五代将軍綱吉の麹町藩邸への御成(おなり)であった。

 尾張藩の財政を火の車に追いやった将軍の御成とは、どういうものだったろうか。

 一口でいうと、将軍家が諸大名の屋敷に公式に訪れる行事。室町時代から行われ、信長、秀吉も慣例にならった。江戸幕府においても二代秀忠は、将軍の権威を有力外様大名たちに誇示するため、しばしば御成を行った。

 その後、迎える大名側にとっても、名誉あるもの、己の地位・家格を高めるものとして壮麗な御成門や御成御殿を建造し、しだいに派手さを競うようになった。

 けれども、あまり投資対効果≠ェないことが分かってきたせいか、家光のころになると、規模も縮小されるようになった。

 それが、綱吉の時代になると一変。在位二十二年間に、なんと百八十六回に及ぶ御成が行なわれたのである。

 元禄十一年に行われた尾張家への御成は、こんな首を傾げたくなるような話が伝わっている。

 それまで御三家に対する御成は尾張・紀伊・水戸と格式順に行われた。だが、このときは順序が違って、前年四月に紀伊家が先となった。

当時、紀伊の藩主光貞は年齢七十歳、在位二十九年だったが、尾張・綱誠は四十四歳、在位三年、水戸・綱條が四十歳、在位六年と、光貞が突出した存在だったためだが、尾張藩は、これを「遅れを取った」と受け取った。

 「紀伊に負けるな」と、藩を挙げて奮い立った。前年の八月、幕府から麹町に御成用の殿舎を設営する添え地を賜ると、すぐさま隠居中の光友から綱誠に二万両と木材が、母親の千代姫からも二万両が贈られた。

 そして、九十間(約一六四b)の棟つづき、四十九間(約八九b)の廊下という壮大な殿舎を建築し、御成の日には来客と家中の者合わせて八万二千人が饗したといわれる。

 紀伊家が要した費用が八万六千両だったのに対して、尾張藩は十一万両余に及んだという。面目を保つためとはいえ、とんだ見栄っ張り≠ヤりに愕く。

 藩の財政が困窮している折に、このような将軍御成への巨額な出費とか、側室を十七人余も置くなど、綱誠の治世には疑問を抱かせる面が多い。

 しかし、それまで課税の対象外であった商人に調達金を出させたり、家臣中心に課税を強化するなど財政改善のために払った、さまざまな努力を評価する史家もいる。

 

 五人に一人が六十五歳以上という高齢社会

を迎え、昨今では「自分らしい最期を迎えたい」という終括≠ェブームになっている。

 超セレブの中には、ロケットを使って宇宙への散骨を望む者とか。逆にお墓を持たず、ささやかな樹木葬で済まそうとする者とか。

あるいは、子どもたちに負担をかけないために葬儀を省いた永代供養がふえているといわれ、変わった催しとして最期に着る仏衣のファッションショーも開かれているそうな。

一方では、先立った身内をいつも偲ぶため、ミニ骨壷を部屋に置いたり、ペンダントの中に遺骨を入れて首にかけたりする手元供養がひそかな流行になっているという。

昔なら内々につくる遺言書が、今では「エンディング・ノート」とカッコいい? 横文字に言い換えられて、本屋や百貨店などで堂々と売られており、一昔前とはすっかり様変わりした。

 ところが、である。すでに尾張藩には、そうした終括に先駆けて、自分の遺骸の処置や葬儀の概略まで細々と指示し、黄泉の国へ旅立った殿様がいたのだ。それが綱誠である。

 綱誠自筆の遺言や、遺産の配分を記した十一通の文書は、現在二巻の巻物に仕立てられている。(徳川美術館『尾張の殿様物語』)

 綱誠が没したのは、元禄十二年(一六九九)

六月五日。享年四十八歳であった。数年前から病気による死を悟り、何通もの遺書を残している。綱誠なりの終括である。

 その内容は、先述した遺骸の処理のほか、幕府との折衝や戒名の指示、さらには自分に尽くしてくれた側近の処遇や、側室・遺児らへの遺産金の分配など、さまざま。

 嫡男吉通を除く六人の男児への遺産金は、つぎのようになっている。

 ▽三千両=八三郎(後の六代継友)、岩之丞(十二歳で没)、城次郎(三歳で没)、万三郎(後の高須家二代義孝)▽二千両=安之助(九男の松平(みち)(まさ))、万五郎(後の七代宗春)

 これらを合計すると、なんと一万六千両に上る。それぞれに出金場所が記されており、

藩の公金ではないらしい。嫡子の吉通は、これ以外の膨大な資産のすべてを相続した。

 別の遺言状には、十七人の側室に対しても遺産金の指示がある。最高は名古屋にいた梅小路(梅昌院)への三千両と毎年米千二百石)、

最低は江戸にいた森川で、「三十両を渡し、暇を取らせよ」と、指示してあるという。



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