現代の企業を見ると、規模の大小を問わず創業者の性格や理念が、その会社の社風となって、今日に至るまで色濃く残っている場合が多い。
人間がつくる組織や集団は、いつの時代でも、どの国でも似たようなもの。尾張藩においても、創業者≠ナある初代徳川義直の人間性や遺訓が、藩政奉還に至る二百七十年にわたって、影響を与えたといえるであろう。
八代将軍吉宗に徹底的に反抗した七代藩主の宗春の場合には、家光とことごとに対立した義直を彷彿とさせるし、幕末に佐幕派を制して勤王・新政府側に就いた十四代藩主の慶勝など、義直の遺訓『王命に依りて催さるること』に従ったのではないかとさえ思える。
このように尾張藩の基礎を築いた義直は、神儒一体の思想を持つ超堅物≠ナあるが、ほほえましい人間くささを見せる面もあって、なかなか興趣の尽きぬ殿様である。
慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、その戦後処理として豊臣勢力を徹底的に排除し、徳川政権を揺るぎないものにするため、豊臣系の大名に対して思い切った改易・転封を行った。
そして、徳川一門と譜代大名六十八家を創出して、そのあとに配置した。とくに家康は自分の子息たちを大名に取り立てて、重要拠点に据え、権力基盤の強化を図った。
まず二男の結城秀康を越前に配置し(六十八万石)、秀康死後はその嫡男松平忠直に相続させ、越前一国の支配をさせた。
また、五男の武田信吉を常陸水戸に(十五万石)、六男松平忠照を下総佐倉に(四万石)それぞれ配置して、関東領国の強化を図った。
一方、大阪になお勢威を残す豊臣勢に備えて家康は、東国と西国の境界に位置する尾張をひときわ重視し、清洲にいた福島正則を安芸広島へ加増転封したあとに、四男の忠吉を据えた(五十二万石)。
しかし、忠吉は慶長十二年(一六〇七)三月、二十八歳の若さで江戸において死去し、後嗣がないため改易となった。
そのころ甲斐二十五万石に封じられていた九男の義直が忠吉のあとを継いで清洲城主、尾張国主となったのである。
もっとも義直は城主といっても、まだ八歳の幼児。のちに紀伊和歌山藩主(五十五万五千石)となる十男の頼宜や、常陸水戸藩主二十五万石)となる頼房ともども家康の居城で
ある駿府において、帝王教育≠受けていた。
家康にしてみれば、この三人は孫のような年齢の幼な子ばかり。きっと猫かわいがり?していたに違いない。
義直に代わって尾張の政務は、家康の指導のもと傳役の平岩親吉が行った。義直が家康と母のお亀の方(相応院)に従って初めて清洲城入りしたのは、慶長十四年(一六〇九)一月二十五日のことであった。
このあと家康は、名古屋城の築城と清洲からの遷府を正式に宣言するのである。