尾張の殿様列伝


第十五章 名古屋を戦火から救う (1)

このころ歴史の舞台は、目くるめくほど変わる。ごく大雑把に、その経緯をたどってみよう――

文久二年(一八六二)の半ばころから、尊攘派の活動が激しさを増し、久坂(くさか)玄端(げんずい)を中心とする長州藩と、武市(たけち)半平(はんぺい)()が率いる土佐勤皇党が提携して朝廷に働きかけ、公武合体派の公家たちを追放しようとした。

彼らはそれだけにとどまらず、天誅と称するテロを頻繁に行い、ことに長州藩は有力公家を動かして、自分たちに都合のいい偽勅を出させるほどの力を持つにいたった。

これに対して幕府は、治安の回復を図るため「京都守護職」を新設し、代々徳川家に忠誠を尽くす会津藩の藩主、松平容保に就任を要請した。

しかし、莫大な財源と労力を要し、藩にはなんの得にならぬ、この仕事。容保は固辞した。けれども、政治総裁職になった松平春嶽らの再三の要請に抗しきれず、家老西郷頼母らの反対を押し切って、承諾したのだった。

幕府はまた、将軍家茂の上洛に先立って、出羽庄内藩の郷士、清河八郎の提案を入れ、警護に当たる浪士隊を募った。ところが、隊員二百数十人が京都に着いた途端、清河が態度を豹変させ、尊王の方針を表明した。

将軍の警護と聞かされていた隊員は、びっくり仰天。江戸へ帰る者と、京都に残る者とに分かれた。このとき残った者は、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らの十数人。これがやがて京都守護職の配下に就き、幕末の京都を震え上がらす殺人集団、新選組となる。

文久三年(一八六三)三月、宮中に参内した家茂は、天皇からあらためて国政の委任と攘夷の決行を申し渡された。その後も家茂は加茂神社への行幸に従い、雨中で天皇を護衛するなど、朝廷と幕府の力関係が逆転したありさまを天下にさらすことになった。陰で糸を引くのは、むろん長州藩である。

 その後も尊攘激派は、天皇が大和へ行幸し神武天皇陵に攘夷の祈願をされることを画策する。しかし、宮中では行幸阻止と長州藩追い落としの計画が着々と進められていた。

 この中心になったのは、長州藩の動きに脅威を感じていた薩摩藩と会津藩。それに公卿では、公武合体派の中川宮らであった。

 そして、八月十八日の深夜。クーデター派は行幸の延期と長州藩の警護解任、過激公家の追放――を決め、京都から尊攘激派を一掃したのである。

 

 長州藩が京都から撤退させられ、攘夷激派の公卿たちが長州へ逃れた(七卿落ち)この事件は、八・一八政変といわれる。ではこの間、慶勝はどうしていたのだろうか。

 家茂が三代将軍家光いらい二百二十九年ぶりに上洛する文久三年(一八六三)三月に先立って京に入り、正月十五日に御所へ参内した。このとき初めて天盃を頂戴している。

 このあと孝明天皇は、加茂神社と石清水八幡宮へ行幸になって攘夷の祈願をされるのだが、陰で長州と過激派公家らが操るこうした企みに対して、薩摩の島津久光、土佐の山内容堂らの公武合体派や、政事総裁職の松平春嶽は、猛反対した。

 しかし、尊攘派の計画を阻止できなかった三人は、相ついで帰国してしまう。

 「如雲。わしは帰らんぞ」

 「しかし、国許のこともそろそろ……」

 如雲が懸念するように、当時まだ藩主であった茂徳のもと、藩内は茂徳派と慶勝派に分かれて、混乱状態がつづいていた。

 「今は公武一和を最優先するときじゃ」

 そういって慶勝は、しきりに帰国を奨める如雲の言をさえぎって京都に腰を据え、幕府と朝廷の間を奔走したのである。

 世に幕末の四賢候(しけんこう)という。松平春嶽、伊達宗城、山内容堂、島津斉彬の諸大名をいうが、派手な動きをきらい、地道に、あるいは誠実にことを運ぶ慶勝は、幕末の動乱期の中で実はこれら四人以上に勝るとも劣らない活躍をしたのである。

 同年四月末に一時江戸へ戻る慶喜の代わりに、将軍()(よく)(補佐)を命じられたとき「その任にあらず」といったんは固辞した。が、朝廷と幕府の双方から強い要請があって受諾したのだった。

 そして家茂の帰府がほぼ固まったとき、輔翼の辞任を申し出たが、このときも困惑した家茂と朝廷から慰留された。このように慶勝は、朝廷と幕府の双方から信頼され、強い期待が寄せられていたのだ。

 家茂が六月九日に帰府を許され、京都を去ったあと、慶勝も同月十七日にやっと尾張へ帰ることが許された。

 帰国のあいさつのため参内した慶勝は、孝明天皇から天盃を賜るとともに、

 「公武一和のため、よく働いてくれた」

 とお褒めの言葉があり、御太刀一振(菊桐紋蒔絵太刀)が下賜された。なお、この太刀は現在、徳川美術館に保存されている。



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