尾張の殿様列伝


第十四章 改革と謹慎生活と (1)

財政の再建は、いつの時代でも、どこの国でも大きな痛みを伴うもの。わが国でもつい先だって行われた消費税の引き上げなどは、その典型だが、通貨危機のさいに起きたギリシャやイタリア、キプロスの混乱もまだ記憶に新しい。規模こそ違え、慶勝の進めた尾張藩の改革においても、同様であった。

藩が破産寸前になって、苦しまぎれに乱発した米切手(藩札)は正金の裏づけがないから、ただの紙切れになりかねず、物価の高騰を招く恐れがあった。反対の声が強く、やむなく藩は豪農や豪商らに保証を求めた。が、これも一時しのぎに過ぎず、自らの首を絞める結果に終わった。

豪商らが被った最大の痛みは、藩に貸した巨額のカネが「差上げ切り」という名目で、事実上踏み倒されてしまったことである。

 あの雄藩、薩長でも似たようなもの。

薩摩藩では家老の調所(ずしょ)(ひろ)(さと)が豪商から借り受けた五百両を、無利子二百五十年返済という気の遠くなるような期間を設定して、事実上負債を帳消しにした。

 また長州藩では、村田(むらた)清風(せいふう)が「防長四白」といわれる米・塩・紙・(ろう)の専売権を商人たちに与える代わりに、巨額な運上銀を召し上げ、軍用資金などに充てたのである。

 しかし、尾張藩において藩士たちの痛みは豪商らの比でなかった。上米(あげまい)といっ禄の一部を強制的に藩に徴収されたばかりか、役職に長く就いていない者は、容赦なく致仕(ちし)(解雇)され、奉行など多くの役職のうち、無駄と思われるものは廃止された。今でいう行革である。

 上米は、八代将軍吉宗が享保の改革で行った苦肉の策のひとつで、享保七年(一七二二)に諸大名に命じて、一万石につき百石の割で上納させた制度。あまりに評判が悪いので、八年後に廃止されたが、尾張藩では背に腹は替えられず、あえて禄百石につき二石ずつとしたのだった。藩士はたまったものでない。

 藩は困窮した彼らを救うため、仏壇用の彫金とか、養鶏、()()()栽培などの講習を行い、積極的に内職を奨めた。小藩ならともかく、御三家筆頭の大藩が恥も外聞もかなぐり捨てて?奨励した内職(藩は職芸と称した)――これがモノづくり名古屋の原点となったという説もあるが、はたしてどうであろう。

 それはともかく、慶勝が藩主の座に就いてから、わずか七年間で藩財政を立ち直させた手腕は、見事というほかない。

 

 慶勝が育った三万石の高須藩は、小なりといえども御三家筆頭、尾張藩の支藩という矜持をもち、小なるが故の厳格な統制と綱紀が保たれていた。

 一方、これに比して宗家であるはずの尾張藩は、四代にわたる「押し付け藩主」による規律の緩みと士気の衰え、それに大なるが故の陰湿な派閥抗争が目にあまる様相になっていた。

 (人心の一新を急がねばならぬ)

 父親の義建と叔父の徳川斉昭からきびしい帝王教育を受け、二十六歳という血気盛んな青年藩主、慶勝は闘志を奮い立たせた。

 金鉄党(組)という熱烈な支援集団から背中を押されれば押されるほど、燃えた。

 しかし――

財政改革のさいにも、痛感したことであったが、年寄と呼ばれる重臣たちや勘定奉行はじめとする面従腹背、言葉巧みな肩透かしには、なんど歯噛みをし、手を焼く思いをしたことであろう。

いやいや、それ以上に慶勝の前に立ちはだかった厚い壁、それは成瀬正住(まさずみ)・竹腰正ィ(まさあと)という二人の付家老であった。藩内には幾人かの家老がいる。が、この二家は「両家」といって、その上に立つ格別な存在である。 

 また、両家とは別に「幕下御付属衆」と呼ばれる三河寺部の渡辺半蔵家、駒塚の石河家、大高の志水家といった重臣たちが格別の身分、取り扱いを受けていた。

 彼らを無視すれば七代宗春のように、いつ寝首をかかれるかしれない。



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