尾張の殿様列伝


第十二章 四代の押し付け藩主 (1)

 

二百六十年間にわたる尾張藩の歴史の中で

半世紀もの間、ぽっかりと穴が開いたような空白、いや暗黒ともいえる時期がある。いわゆる幕府からの「押し付け藩主の時代」だ。

 ごく一握りの親幕府派の連中を除いて、ほとんどの藩士たちが面従腹背を決め込んで、やる気をなくし、領民は領民で「お上のために」と働く気持ちを、すっかり失った。

 現代風にたとえれば、代々のオーナー社長家の跡取りが亡くなって、大手の取引き先会社から縁もゆかりもない坊ちゃん社長が、四代にわたって天下りしてきたようなもの。

 おまけに、その社長ときたら鳩の飼育に夢中で、会社へは全然顔を出さぬ輩がいると思えば、社員のご機嫌取りに会社からの借金はすべて棒引きにすると喜ばせたものの、会社の赤字がますます膨らんで、結局は社員の給料を減らせねばならない羽目になった輩まで、さまざま。

 では、もう一度、その藩主の名をおさらいしておこう。十代は(なり)(とも)、十一代は(なり)(はる)、十二代は(なり)(たか)、十三代が慶臧(よしつぐ)である。

このうち三人が御三卿から、あとの一人は将軍家筋からきているから、尾張藩からすれば、あの宗春を抹殺した、にっくき吉宗の血統に完全に乗っ取られたことになる。

 では吉宗の血統とは、どういうことか。

吉宗は将軍家を自分の血統で独占しようと(極論すれば尾張家つぶしをしようと)して次男と四男にそれぞれ十万石の領地を与えて田安家、一橋家を興した。これは「御両卿」と呼ばれ、御三家並みの扱いを受けた。

その後、吉宗の長子、九代将軍家重のときに、その次男が清水家として独立したので、以後「御三卿」と称されるようになった。

その目論見に、うまくはまってしまった?のが尾張藩である。中興の名君といわれる宗睦が亡くなると、運悪く実子二人と高須家から迎えた養子まで世を去っていたので、後嗣がなく、九代つづいた藩祖義直の血が、途絶えてしまったのだ。

藩内の嘆きは、いかばかりであったろう。

家臣阿部直輔は、尾張藩の通史である『尾藩世記』の中で、こう慨嘆する。

『藩祖、家を興されしより、ここに二百年、九世にして血統尽く。敬公義直の道徳、明公宗睦の慈善いたらざるなし。この家にして、このわざわいあり、ああ天なるかな』

 

寛政十二年(一八〇〇)一月に十代藩主となった斉朝は、十一代将軍家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男。吉宗の玄孫に当たる。藩主になったときは、まだ七歳だったので、藩政の実権を握っていたのは、付家老の成瀬正寿(まさなが)だった。

 この正寿、三十年間も家老を務めながら国許に帰ったのは、ただの二回、二年間だけ。あとは江戸に居残りつづけて、幕府と密接な関係を築き、斉朝の尾張藩主送り込みの片棒を担いだことは、いうまでもない。

 だが、藩内の反発を懼れたのであろう。藩士たちの「懐柔作戦」に躍起となった。

 まず、斉朝が就任した翌年の享和元年十月には、宗睦がかつて行った一種の目安箱を真似て、「家中の者はだれでも、いいと思ったことは封書に書いて役所へ差し出すよう」に命じた。(これを触帖(ふれちょう)通辞留(つうじどめ)といった)

 また後年になるが、生活に困窮した藩士を救うために、藩からの拝借金を免除したり、

米穀商からの借金などの返済を、無利子五十年間年賦にするなどの「徳政令」を出した。

 けれども、こうした措置は家臣には歓ばれたが、米穀商人をはじめ民衆からひどく顰蹙(ひんしゅく)を買い、斉朝の治世を恨む声が町々にあふれたという。

 だが斉朝には、そんな声などどこ吹く風。

文政十年(一八二七)八月、三十年近くつづいた藩主の座を斉温に譲ると、十月には城の東北御深井(おふけ)(まる)外に建てさせていた豪壮な新御殿に移り、悠々とした余生を送るのである。

 尾張藩の陪臣水野正信は『青窓紀聞』に、つぎのように皮肉を込めて書いている。

「新御殿は御座の間、紅葉の間をはじめ御茶屋向き、御庭向き……などは、またとない結構なつくり。役所はすべて、お役所そっくり。きわめて広々とし、表御門の外には、ちょうど川が流れるので、堀のような外観を呈する。御入用の材木代を除いて、人夫代だけでも十万両に上るらしい。まわりのお堀端筋にある屋敷、長屋までも改築が進められ、御鷹部屋も立派になった。……近傍にかけられた筋違(すじちがい)(ばし)も、小さくみすぼらしいものだったが、今度欄干を付け、大きくつくられた」

藩の財政は、青息吐息。領民には倹約令を発して、食べ物や着物のことまで細かく干渉するのに、模範とする殿様ときたら、この体たらく。

人心がますます離れていったのも、まことに無理からぬことであった。



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