尾張の殿様列伝


第十一章 途絶えた義直の血統 (1)

 宗睦の藩政改革は、これまで述べたように死罪や(たたき)の緩和など「刑法」の改正にいたるまで、さまざまな分野に及んだ。しかし、治世が三十年前後にもなると、さすがにあちこち(ほころ)びが見え始めてきた。

 その最たるものは、ご多分に洩れず財政の窮迫である。

宗睦が襲封した初期のころこそ、代官をじきじき支配地に赴任させる所付代官制度によって年貢の徴収がふえ、豪商・豪農からの調達金取立てや、瀬戸物の専売制などによって、ひと息つく時期もあった。

 しかし、これらはしょせん焼け石に水的な効果でしかなかった。

藩から出費する項目を、思いつくままに列挙してみると、天明期の庄内川の氾濫をはじめ災害の多発に対する救済や防災工事への支出。藩士の救済のための世禄制の復活や、新田の開発に要する諸費用、さらには巨額な藩債の利子の支払い――等々、ため息が出そうな歳出がずらりと並ぶ。

藩は、財政再建の苦肉の策として寛政元年(一七八九)十二月から家臣に対し、禄百石につき二石ずつの上米を徴収することを命じた。今でいう賃金カットである。

つづいて寛政四年には、米切手を名目とした藩債発行に踏み切ったのである。では、そのころの藩の台所をのぞいてみよう。

在・町方からの調達金による藩債の総額はついに二十二万五千両余に達した。これは前年の米金歳入額二十六万三千両に匹敵する額である。

どこかの国の国債ではないが、このまま藩債が膨れつづければ、そのうち利子の支払いだけで財政破綻になりかねない。

そこで藩は考えた。藩債を減らす第一手段として、それまで支払った利子の総額六万五千両余を元金から差っ引き、十六万両弱とする。しかも、これを米切手によって償還するという、きわめて虫のいい案であった。

豪商の中には、知多の廻船問屋、前野小平次のように、決然拒否をし、取り潰されたとうわさされる剛の者もいたが、多くの豪商たちは理不尽と思っても、引き換えに名字帯刀を許され、多少の特典を認められて、泣き寝入りをするよりほかなかった。

一方、藩は米切手の発行に当たり、年貢の米切手による納入を禁じたほか、領内における商取引や貸借に米切手の通用を大いに奨励したのである。

 

米切手、つまり藩札は二代藩主・光友時代の寛政四年(一七九二)に発行されたが、二年と経たず失敗に終わっている。

今回、強硬に反対論を唱えたのは、熱田奉行を務めていた津金文左衛門胤臣であった。胤臣は評定の席上、こう力説した。

「米切手は、金・銀・銭の正貨と兌換できなければ、ただの紙切れ。兌換できずとも、それなりの信用の裏付けがあれば、通用はいたしましょう。けれども、通用するのは、むろん藩内だけ。しかも、乱発されがちなので物価の高騰を招くのは必定」

宗睦と居並ぶ年寄(家老)や勘定・町奉行ら重臣たちは、寂として声なしの様相である。

「さらに申せば、偽造しやすいので、その対策も容易ではありません」

「あいや。津金殿」

胤臣の発言をさえぎったのは、勘定奉行 の大塚與九郎であった。

「申されることは、一理も二理もござる。されど、畏れ多くも光友公の時代に不調に終わったのは、それなりの準備金がなかったためと存ずる。こたびは在方、町方衆の準備金も存分に用意してござれば、ご指摘されるような懸念は毛頭なく……」

 「懸念があるから申しておるのでござる。拙者は、米切手よりも米の専売制の方が得策と考えるが、いかがか」

 胤臣は内心、米切手の発行は二、三の豪商がたくらみ、それとつるんだ小納戸役人らの策謀とにらんでいたが、公の席で述べるわけにいかない。

 「米の専売制など、他藩に実例なく喫緊の事態に対応できません。これまで藩財政の窮乏のつど藩士に課してきた上米も、もはや限度。津金殿は、公儀に拝借金を願うつもりでおられるのか」

「公儀に? まさか」

胤臣は、公儀と聞いて黙した。

ときの十一代将軍家斉は、宗睦をはじめとする御三家・後三卿によって擁立されたといってもよく、その家斉が重用する老中主座の松平定信が寛政の改革を進めている最中であったから、なおさらであった。

 こうして発行された藩債は、発行の当初こそ順調にいくかにみえたが、偽札の出現が頻発し、翌五年には早くも新札を発行して、新・旧札の交換を余儀なくされたのである。

 その後も四、五年おきに交換を行い、正貨に対する価格は、低落する一方となった。



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