尾張の殿様列伝


第十章 能吏≠登用し藩政改革 (1)

 「ちかごろ、代官さまが代官所に毎日詰めておられるが、どういうこっちゃ」

 「おお。お前も気づいていたか。これまで代官さまは名古屋の藩庁にござって、こちらへはめったに姿を見せることはなかった」

 「そうよな。その代わり手代さまが年貢の取立てなどの仕事をされていたが」

 天明元年(一七八一)の春先。目と鼻の先に小牧城が見える農道で、たまたま出会った農夫二人が、ひそひそ話をしている。年かさの方が、さらに声を低くしていった。

 「なんでもな。これまでのように代官さまが現地におらず、なにごとも手代さま任せでは、村役人や地主らと結びついて、袖の下が横行する。それではいかんと、宗睦さまの命令で、代官さまはいつも代官所におって現地のことをしっかり知るように、ということになったげな」

 「そういう事情があったのか」

 うなずく若い農夫に、年かさの方がさらに近寄って耳打ちする。

 「これまで年貢については、手代さまの指示を受け、藩のお触れは郡奉行さまから伝えられ、水の配分については水奉行さまから命令されるという厄介なことも、そのうち代官さまから一本で伝えられるってうわさだ」

 「そうか。それは助かる。いまの殿様は偉い方だと聞いておったが、さすがじゃな」

 若い方がしきりに感心して、よっこらさと鍬を肩にかつぎ、歩み去っていった。

 この日を遡る安永三年(一七七四)正月、竹中彦左衛門(かず)(まさ)という家臣が、人見弥右衛門(あつし)?邑(きゆう))を通じて、農政改革の建白書を宗睦に提出した。

 その内容は、分かりやすく記せば、おおむね農夫の会話のとおりだが、これを実際に断行したのは、国奉行を兼任した国用人の人見黍と、間宮外記之峰(ゆきみね)の二人であった。効果はてきめん、汚職役人らが減って、藩庫へ入る年貢もふえた。

また同時に、それまで年貢の皆済を翌年の三月までとなっていたのを、年内と改めたため、これも増収につながったという。

農民の負担をいかに減らし、協力をさせるか。そのためには職務を下の役人に任せっきりにせず、農民とじかに接し、民情に通じた代官に置き換えるーーこうした農政改革のねらいが、一歩前進したのであった。

 

 「ふふふ。お主もワルよのう」の台詞でおなじみの時代劇に出てくる代官は、とかく悪役の権化みたいに扱われる。むろん、そんな連中はごくわずかだろうが、年貢取立ての多寡が己の出世に関わり、商人との利権にどっぷり浸かった仕事だから、とかく誘惑が多い役職であることには違いない。

 話は少々堅苦しくなるが、ここで宗睦が大(なた)を振るった代官について触れてみたい。

 尾張藩が支配する対象は、古くから町方と地方(じかた)に区分されており、地方の大部分は(名古屋城下と熱田を除いて)国奉行の支配下にあった。

 国奉行は、大代官や代官、郡奉行を配下に置き、農政の実権を握っていた。人見黍と間宮外記の二人が国奉行を兼務して改革を行ったのも、このためである。

 一口に代官といっても、さまざま。蔵入地の支配や年貢の徴収に当たる大代官や、同様の責めを負う郡奉行や水奉行、山奉行も一般には代官と呼ばれていた。

 宗睦の改革によって、地方に常駐となった代官は、「所付代官」と呼ばれ、寛政二年(一七九〇)には、つぎの十二ヵ所にあった。「それなら近くに址がある」と、心当たりのある方も多いであろう。

 佐屋、北方、鳴海、水野、上有知、清須、太田、横須賀、神守、庄内、鵜多須、小牧

 これら代官の所在地には、陣屋以外に代官や下役である手代・同心の住む屋敷も設けられ、そのほか出頭した村役人、農民らのために宿泊所も置かれていた。

 代官所の構成を『新修名古屋市史』で見てみると、手代、並手代、足軽、小使らを合わせて、平均十五人前後の人員となっている。

 ここで、上水野村(現・瀬戸市)に置かれた水野代官所について少々触れよう。

 ここは尾張東部の丘陵地帯を押さえ、美濃に近いという地勢的な要所であるばかりでなく、御林が愛知・春日井郡に及んでいた関係もあって、林奉行も兼務していた。

 愛知郡の二十五ヵ村、春日井郡の八十一ヵ村、美濃可児郡の五ヵ村、計百十一ヵ村を支配し、総高六万一千三百余石に及んだ。

津金胤臣が磁器の生産を、熱田前新田で行おうとしたとき、それでは瀬戸が廃れてしまうと、庄屋の加藤唐左衛門がときの水野代官を通じて胤臣に訴え、計画がくつがえった話は、ご記憶の方もあろう。



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