サムライ養鶏


サムライ養鶏 (1)

 

海部(かいふ)(そう)(へい)が後藤幾左衛門の自死を知ったのは、明治四一八七一年十月二十日。庭先の寒椿の蕾がふくらみをまし、廊下に初冬の日差しが弱々しく差し込み始めた早朝のことであった。

「あの幾左衛門がどうして……」

裏口から息せき切って駆け込んで来た下男から知らせを受けたとき、壮平はそう言って絶句した。

幾左衛門は、壮平が尾張藩時代のころ務めていた御本丸番の下役で、還暦ちかい寡黙な藩士であった。新政府による版籍奉還で家禄を失った中・下級藩士の生活は、日に日に困窮度をましたが、幾左衛門は愚痴ひとつこぼさず、非番の日には夜明けから四つ手網を担いで、御亭(おちん)(した)と呼ばれる組屋敷(現在の名古屋市東区百人町あたり)の家を出、一里(約四`)ほど離れた堀川まで足を運んだ。

その当時の堀川は、ハエと呼ばれる小ブナが清流に多く棲みつき、ことに城の真西にあってザアザア橋と俗称される流れの強い朝日橋付近では、肉が厚く骨がやわらかいと評判を呼んだ銀ブナがよく獲れた。弘化元年(一八四四)四月に、袋町四丁目(現中区錦二)に住む丸屋正七がこのハエに眼をつけ、佃煮にして丸正の名で売り出したところ大うけし、進物にまで用いられるようになった。

幾左衛門は、このハエを獲っては丸正に売り、生活の足しにしていたのである。ところが、この話を耳にした失業藩士らが大挙押しかけ、ついにはハエよりも人の数が多くなるありさま。加えて、冷たい水で足腰を冷やすので持病の腰痛を悪化させ、このところ幾左衛門の姿を見かけなくなったと、噂されていたところだった。

幾左衛門は、切り米四十俵の軽輩ながら学問好きで、五年前まで若者たちに混じって壮平の父、左近右衛門のもとへ海部流砲術の講義を受けに通っていた。その後、内職による過労がたたって労咳を患った妻とも、七十歳になる実母とも昨年秋に相ついで死別し、実子も養子もなく、ちかくに身寄りもいなかったから、天涯孤独の暮らしをつづけていた。

けれども、壮平はひとごとと思えなかった。壮平自身も二年前に隠居した父と母、それに鉄砲持や槍持二人と下男を抱え、先に版籍奉還で得た十八石九斗の永禄米もほとんど名ばかり。あすの米にもこと欠くありさまだったからである。

前年十月のことだった。藩は不毛地を開墾する農業に転じる者には、十七石五斗の手当金を支給するという「帰田法」を発した。壮平は迷いに迷ったあげく、いっそ空手形同然の永世録なら、これを返上し帰田に応じようと決断した。しかし問題は、代々海部流砲術の師範として鉄砲奉行も務めたことのある百二十石取の家柄を矜りとし、生き甲斐として来た父親をどう説得するかであった。

話を聞いた左近右衛門は、果たして激昂した。三日三晩烈しく論議を交わし、ときにはいきり立って床の間の刀架に手を掛ける一幕もあった。だが結局、左近右衛門は当時藩内にあった十七、八の砲術流派のすべてが、いずれ近代的な様式砲術に取って代わられ、武門の誉れだけでは生きていかれぬと悟ったのであろう。一時の興奮が収まると、「海部定右衛門正親を祖とする由緒ある家も、とうとう拙者の代限りとなったか」と、寂しげな言葉を洩らし、がっくりと(こうべ)を垂れたのだった。

 だが、皮肉なことに、この帰田法は新政府から横槍が入り、申請者三百七十人中、認められた者はわずか二人。壮平の願いは叶えられなかったが、武士を棄てる決意に変わりなかった。翌四年の正月には、無給だった一等兵隊の差免願(辞職願)を提出。いよいよ新天地へ赴く態勢を整え、準備に追われていた矢先に幾左衛門の自害を知ったのである。

 幾左衛門の葬儀は、身につまされる多くの上司、朋輩ら参列者から同情の涙を誘った。

遺体の傍らに置いてあった遺書には、百人屋敷に住む同役に宛てて、「腹を斬る脇差は一竿忠綱の業物。金目の物は他になく、これを葬儀の費用に」と認めてあったと言う。

 

明治四年も押し詰まった十二月十二日。壮平一家七人は、十数代にわたって住みなれた撞木町坂下筋西(現東区撞木町二丁目)に別れを告げ、姉すま(、、)の嫁いだ海部久蔵の家族ともども近郊の春日井郡池之内村に移住した。

 都落ち、落ち武者――。伊吹(おろし)が容赦なく道の砂塵を巻き上げ寒さで身のすくむような引越しの日。大八車を引く壮平の脳裏を、そんなうとましい言葉がいくどもよぎった。

 (いや、違う。われらは事情が異なるのだ)

 壮平はそのつど烈しく首をふった。武士階級の凋落という新しい時代の流れの中で、武士の魂、矜持を捨てず、いかに雄々しく、たくましく生き抜いていくか。きょうはむしろ、その門出の日なのだ。時流に抗しえず敗れ去った幾左衛門。哀れとは思うが、逆境を跳ね返し、打ち勝ってこそ武士(もののふ)、尾張藩士ではないか。

 壮平が新たな決意を胸に居を移した池之内村は、尾張北部の小牧山と入鹿池を結ぶ中間地点にあり、その昔、海部一族の先祖に賜った土地が、このごろでは三十余箇所に小分割されていた。それだけに、庄屋や村の有力者とも古くから面識があり、土地や家屋の購入などになにかと便宜をはかってもらうことができた。

 また、ここは小牧山のふもとに位置し、天正十二(一五八四)年に秀吉と家康・織田信雄連合軍が戦ったさい、家康軍が布陣して優位に戦いを進めた縁起のいい土地であることも、壮平を大いに奮い立たせた。すでに十月には従兄弟にあたる平井理右衛門一家も、ひと足先に撞木町から移住していたので、ここに奇しくも海部一族の三世帯が勢ぞろいすることとなった。

 

 さて、この村であすからどのように生計(たつき)を立てていくか。三家族は本家筋に当たる壮平が中心となって思案を重ねた。帰田法の趣旨に沿うなら不毛地の開墾ということになる。が、それはあくまで建前。久蔵も理右衛門も、そんな考えはさらさらない

 最後に落ちついたのが、いっそ三世帯が協同して雑貨屋つまり「よしずや」をやろうという壮平の考えであった。酒やたまり(刺身醤油)、味噌類を鬻ぐ(ひさぐ)にのはもちろん、米の売買を主体として運送業も引き受ける。そして暇をみて田畑を耕し、食い扶持ぐらいの作物は自前でつくろうという案である。

 尾張藩では、すでに古く安政の時代から中下級の武士たち、中でも御亭下組屋敷の同心たちは苦しい家計を補うため、傘貼りや彫り物のほか、指物業や仕立、飾り細工、鍛冶等々に精を出していた。藩もこの副業を「職芸」として届けさせ、奨励していたほどである。

 また維新後になると藩は、武士の授産講習会を開いてせっきょくてきに転業を奨め、

中にはロウソクや時計、絹紬などを扱って大儲けする藩士が現れるなど、全国でも有数の転業成功藩として知られていた。久蔵も理右衛門も、こうした状況をよく承知していたから、新しく商売を始めるのに、なんの異論もはさまなかった。

一年間の準備期間を終えて、いよいよ明治六(一八七三)年の正月――。三家族は、なけなしのカネをはたいて「よろずや」を開業した。ときに壮平二十五歳、久蔵三十歳、理右衛門三十八歳。そして、開店後間もなくの五月六日、壮平は店主挌の者がひとり身ではと奨められ、名古屋区池田町(現中区栄四丁目、池田公園内)に住む士族、岡田時三郎の妹すみ(、、)を妻にめとった。すみ(、、)は十七歳になったばかりの幼な妻。武家育ちとはいえ、海部家と同家格の岡田家だったから、生活のきびしさをよくわきまえ、挙式の翌日から店に出てかいがいしく働き、たちまち舅たちのお気に入りの嫁となった。

 こうして三世帯が意気揚々と始めた商売だったが、なにせ見渡す限りの広大な丘陵地帯に、あるのは点々と散在するまばらな家屋と田や畑。五百人足らずの村だったから、訪れる客は日に数えるほど。それに、所詮はそろばんを無視した武家の商法ときているから、ときには一品も売れぬ日々がつづいた。

 これではとても三家族、三十人は食っていけない。開店から借金に借金を重ね、二年後の明治八年になると、とうとう米を仕入れるカネもなくなり、代わって安価な麦を店に置いてお茶を濁す始末。見かねた壮平の弟、海部正秀が城下町から半日の道のりをいとわず、しばしば壮平の家を訪れるようになったのは、このころからである。

 「兄上。いつまでこんな商売をつづけるおつもりですか。このままでは、ますます泥沼にはまりこむようなもの」

 「転業をせよ、と申すのか」

 力なく視線をそらして訊き返す兄のやつれた顔を見ながら、正秀は黙ってうなずく。

 「わしもいろいろと考えているのだが、これはと思うよい商売がなくてな」

 「いっそ、養鶏を始められては、いかがですか」

 「養鶏? ニワトリを飼って、卵や肉を売る?」

 「そうです。この先なかなか有望かと思います」 

 「ふーむ。養鶏をのう……」

 壮平は、そうつぶやいて腕を組んだ。弟が現在養鶏に打ち込んでいることは、よく承知していたし、一時は自分もやってみようと真剣に考えたときもあった。

 しかし、そのころ養鶏といえば、農家の庭先で飼われている雑種ばかり。地鶏といわれ、シャモやチャボのように脚が短くて、身体が小さく、産む卵も小粒でしかも数が少ない。それが果たして商売になるのだろうか。まして一般に肉食する習慣がなく、神の使いとされていた鶏を売り買いすることは、神を畏れぬ不埒な行為といわれていた時代である。

 物つくりや物品の販売ならまだしも、そういう生き物を飼い、売買をして口に糊することは、いかに失録した武士といえども、体面を考えざるをえない。それやこれや思いめぐらすと、「よろずや」で痛い眼に遭っていた壮平は、弟の話にもいまひとつ乗れないのだった。

 壮平の逡巡する様子を見た正秀は、風呂敷に包んだ籠からやおら鶏卵を六、七個つかみ出して眼の前に置き、

 「兄上。聞けば義姉(あねうえ)は乳の出が悪く、お悩みになっているとか。この卵は美味なうえ、いたって滋養豊富な食べ物。騙されたと思って一度試食されたらいかがでしょう

 と、奨めた。

 半信半疑で聞いていた壮平だったが、正秀が帰るとすぐすみ(、、)を呼んで重湯をつくらせた。そして、その中に正秀が言いおいていったとおり卵を割って入れ、わずかに塩を加えたものを掻きまわしてすみ(、、)に啜らせた。

 「まぁ、おいしい」

 そっと口にしたすみ(、、)は、痩せてばかり大きくなった顔をきょろきょろさせ、感嘆の声を上げた。

 すみ(、、)は、壮平の家へと嫁いで来てから慣れぬ野良仕事や、うまくいかぬ商売の手伝い、加えて三度の食事もままならなかったため乳の出が悪く、この年初めに生まれたばかりの長女が癇癪を起こして夜泣きがやまず、疲れ果てていた。

 それがどうだろう。この重湯を四、五日つづけると、見違えるほど乳の出がよくなり、あれほどひどかった夜泣きが、ぴたりとやんだのである。



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