新聞の虹


新聞の虹 1

 

この小編を故加藤登一氏の霊に捧げる

 

第二次世界大戦の末期、ゼロ戦など航空機製作の一大拠点であった名古屋は、昭和十九年(一九四四)十二月十三日から終戦間際の翌年七月二十六日まで、実に五十六回、延べ二千百五十余機の米軍機による猛爆撃を受け、市域の二十四lが灰燼に帰した。

この無差別爆撃により、八千七十六人の死者と一万人を越す負傷者、十三万六千余戸に上る被災家屋を出した。中でもB29二百三十機による三月十九日の焼夷弾爆撃は、もっとも被害が大きく、死者八百二十人余、罹災家屋四万戸に及んだ。

その大空襲から六日を経た二十五日の夕刻――。名古屋城から南へ指呼の距離にある中部日本新聞社(昭和四十六年に中日新聞社と改称)の工務局機械部長を務める加藤(かとう)登一(とういち)は、前夜に引きつづきカーキ色の国民服、足にゲートルを巻き、頭に戦闘帽をかむったいでたちで出勤した。

夕刊の発行はすでに廃止されていた。が、局員の三分の一ちかくは徴兵となり、人手不足のため休日返上の毎日であった。

午後九時過ぎ。石川県や長野県北部、さらには三重県伊賀、紀伊などの遠隔地へ汽車便で送る朝刊早版の印刷が始まり、登一は輪転機の状況を見るため、一階から二階まで吹き抜けになった印刷工場へ向かった。

耳をつんざく轟音。それとともに、九台の輪転機からつぎつぎと滝のように新聞紙が吐き出される。厳重な灯火管制下の薄暗い作業場で、それを五十部ずつ荒縄で手際よく梱包し、運搬車まで運び出す発送部員。

――よし。今のところ順調のようだ。

ホッとして、登一がそのまま一階奥の事務室へ向かい、インキのこびり付いたドアを開けたとたん、部屋の壁に取り付けられた緊急用社内電話が、けたたましく鳴った。受話器を取ると、若い編集局連絡員の緊迫した声が耳に飛び込んできた。

「東海軍管区午後九時半の情報をお伝えします。『マリワナ基地ヲ敵ノ大編隊ガ出撃ノ疑イアリ。内地ヘ二十四時ゴロ到着ノ予想ナリ』ということです」

「そうか、ご苦労さん。今夜あたりまた名古屋にどえらい爆撃があるかもしれんな」

半ば冗談でいった言葉であった。しかし、その三時間後には、それがむごたらしい現実となって登一に襲いかかってきたのである。

尾張、三河など名古屋近郊版の印刷を終え、市内向け最終版の準備に取り掛かろうとしていた矢先の午後十一時二十分、名古屋全市に警戒警報が発令された。新聞発行の命である輪転機を火災から守るため、社内に組織された自衛消防団の副団長を兼ねる登一は、さっそく一階の工務局事務室に詰めた。

社内の電灯はいっせいに消灯され、三階の編集局では記者たちがロウソクの光をたよりに原稿を書き、最終版のレイアウト作業を始める。が、それも束の間。午前零時十五分には空襲警報発令。ロウソクの灯を吹き消し、真っ暗闇の中で全員が鉄兜(てつかぶと)をかむり、所定の場所に退避した。

息をこらし、固唾を呑む数分後、B29大編隊の不気味な爆音が迫ってきたと思われた瞬間、社屋のあたり一面ぱぁっと真昼間のように明るくなった。中空で数発の照明弾が炸裂したのだ。

と、屋上へ出るドアちかくへ来て警備に当たっていた登一の脇から、カメラを片手に飛び出した男がいた。

「おい、危ない! 外へ出るなっ」

「Bニクが焼夷弾を落とすところを写真に撮るんだっ」

登一の方へ振り向いて怒鳴り返したのは、写真部員の(おか)島武男(じまたけお)であった。

岡島は屋上の空き地に片膝を着くと、上空へ向けてカメラを構えた。B29の大編隊は、北東の徳川町から名古屋城、本社へかけて帯状にエレクトロン焼夷弾を投下し始めた。

グオッ、ザッザーザザッ!

まるで集中豪雨のときのような音とともに、焼夷弾の雨が斜めから降り注いでくる。夢中になってシャッターを切る岡島。フィルムがほとんどなかった当時、シャッターを切るたび、乾板に蓋を差し込んでは外套のポケットにねじ込んだ。はらはら見ている登一の目の前で、そのうち岡島の身体ががくっと前へつんのめった。背後から焼夷弾の直撃を受けたのだ。

「岡島がやられた!」

登一ら自衛消防団員たちが一散に飛び出した。だが、気丈にも岡島は下腹部から半分顔を出している六ポンドの焼夷弾を両手で握り、満身の力を込めて引き抜くと、屋上の片隅へ投げつけた。その瞬間、青白い炎を噴き出して燃え上がる焼夷弾。消防団員があわてて砂や土をぶっかける。

岡島は四〇aほど体外へ飛び出した腸をつかんで、腹部に押し込み、ワイシャツや国民服で強く抑えた。が、立ち上がりかけて、その場によろよろっと倒れた。

「岡島を担架に乗せ、病院へ運べ」

だれかが叫び、二、三人の社員が駆けつける。しかし、担架がなく、代わりに岡島はモッコで屋内へ運び込まれた。その間にも、屋上のコンクリートや窓ガラスを突き抜けた焼夷弾がつぎつぎと編集局内で炸裂し、炎を噴き出す。

登一は階下へ駆け下り、消火活動に奮闘した。手動の放水ポンプとバケツの水、それに砂をぶっかけて火炎に立ち向かう。しかし、あっという間に机や備品類はめらめら燃え上がる。見ると、その下の階の印刷工場にも数発の焼夷弾が落下し、火を噴いている。

「輪転機を守れっ!」

登一は、そう絶叫しつつ放水で足が滑りそうになる階段を一階まで一散に駆け下りたーー。

編集局は全焼した。だが、幸いにも輪転機の炎上だけはかろうじて免れることができた。中部第五部隊の消防隊分隊が駆けつけ、延焼を防いでくれたのである。

岡島は、意識を失ったまま私立病院から陸軍病院へ転送されて緊急手術を受け、奇跡的に一命を取りとめた。ポケットに入っていた四枚の乾板はすべて粉々になっていたが、フィルムパックにあった二枚のうち一枚が、頭上から落下する焼夷弾の閃光の弾幕を見事に捉えていた。

 

こうして三月十九日の大空襲の日も、社屋が被災した同月二十五日も新聞発行を無事につづけることができた。しかし、二十七回目となる五月十四日の爆撃では、名古屋城が炎上し、ついに新聞社も発行不能となる事態を迎えた。

この日襲ったのは、四百四十機に上るB29。市民が乏しい朝の食事をすませた午前七時五十分過ぎごろから、空を覆う大編隊の機影と、もうもうと立ち上る黒煙によって、抜けるような青空もたちまち暗黒色に変じた。

ババーン、ズドーン、グワーン

凄まじい炸裂音。大型の焼夷弾が命中するたび、ガラスが吹っ飛んで窓枠ばかりになった社屋が揺れた。

「部長、輪転機が動きません!」

印刷場のそこここに落ちた焼夷弾を、竹ざおの先に稲わらを巻きつけた火バタキで懸命に消す登一の耳に、悲鳴に似た声が飛び込んだ。

「輪転機に今のところ損傷はない。送電線をやられたのかもしれん」

火バタキを手にしたまま登一は、「危険です」「やめろ!」という声を尻目に、コンクリートの凸凹になった屋上まで駆け上がった。

キナ臭い煙が漂う中、四囲を見ると、一面焼け野原と化した北西のかなたに、三層、五層のあたりから火を噴き始めた名古屋城の姿が目に入った。

「ああ。お城が焼ける……」

登一は呆然として、その場に立ちすくんだ。

城ははじめ黒煙を上げ、それが白煙に替わり、緑色の煙に変じたと見られた瞬間、まるで巨大な山がどどっと崩れるように、姿を消していった。

登一の目に涙がこみ上げた。あの三月の大空襲の日、中村区中村町の自宅が焼けた、と妻の()()()から電話があったときにも動じなかった登一だったのに、自慢のコールマン髭の先から、放水の水と涙とが入り混じった(しずく)がしたたり落ちたーー。

輪転機は、登一の予想どおり送電線があちこち無残に切断された結果、稼働しなくなったのであった。紙面制作技術の進んだ今日のように、コンピューターで組み上げた紙面を、遠隔地の工場へ電送して印刷する手段のなかった当時、鉛活字で一ページに組み見上げた金属製≠フ紙面は、どこかの新聞社へ運んで紙型に取り、代行印刷してもらうほかなかった。

十六、七日付、タブ(ペラ)二ページの朝刊を刷ってくれたのは、伊勢新聞と岐阜合同新聞(現在の岐阜新聞)であった。こうして、中部日本新聞は、一日も休刊することなく発行されたのである。

そして後日、奇しくもこの両社の新聞を中部日本新聞が肩代わり印刷をし、お返し≠することになったのだった。



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