一、大砲運びが第一号
豊田佐吉が夢見た無限動力。見方によっては、それに一歩も二歩も近づく燃料電池車(FCV)――。水素と酸素を燃料に使い、最後に排出されるのは水だけ。まさに究極のエコカー≠セ。
その先陣を切る「ミライ」は、その名の示すとおり未来を先取りした「モノづくり王国」の期待の星であろう。
さて、この章では、「自動車の国産など夢のまた夢」と歯牙にもかけられなかった時代から幾多の困難を乗り切り、今日までに至った先人たちの息詰まるような苦闘のあとを大まかに振り返ってみたい。
まず、自動車の誕生から話を進めよう。
世界で初めて自動車が誕生したのは、一七六九年。フランスのニコラ・ジョセフ・キニョーという人が蒸気で走る三輪車を考案した。この年は尾張藩中興の祖、九代藩主宗睦公の時代に当たるから、古い話だ。
軍隊で使う大砲を運搬するためにつくったもので、車体はでかくて重く、時速は一〇キロに達しなかったという。走行実験中にハンドルを切り損ねて壁に激突。これまた世界の交通事故の第一号となった。
結局、この車は実用化されなかったが、その後、各国で蒸気自動車の開発が進められた。一八〇一年には、英国のトレヴィシックによって時速一四キロで走る、かなり実用的な車が製作された。
この蒸気機関は、ジェームズ・ワットによって改良が進められ、一八三一年になると英国で蒸気バスが登場。グロスターとチュルトナー間をはじめ、ロンドンと近郊の定期旅客輸送も開始された。
しかし、蒸気バスの全盛期は一八三〇年代で終わり、その後、主役はしだいに鉄道へ移っていった。
こうして英国で起こった陸上交通の革命は、ほぼ一世紀にわたって鉄道が主導権を握った。自動車が鉄道と競い、重要な役割を演じるのは内燃機関の発達、とりわけガソリン・エンジンの出現と、アスファルト舗装やコンクリート舗装による道路網の拡充まで待たねばならなかった。
だが、動力が一挙に蒸気からガソリンに代わったわけでなく、その間に電気自動車も走っていたと聞くと、きっと多くの方が驚かれることであろう。