モノづくり王国物語


第七章 躍進へチャレンジ (1)

 

一、滝兵vs奥田王国

 

鉄道の輸送量がふえ、名古屋港の取扱い貨物量が増加するにつれて、大規模な収納倉庫が必要となる。

この倉庫の建設をめぐって、当時の中京財界を二分する烈しい戦いが展開された。これは、いわば財界の近代化、再編成へ向かう陣痛≠ナもあった。

主役となる両派は、方や二十数年間にわたりローマ法王のごとく財界に君臨する外様派の奥田正香。方や尾張北部から名古屋へ進出し、徐々に勢力を拡大してきた近在派の旗手、滝系資本である。

名古屋には当時、奥田らが明治二十七年(一八九四)六月に開業した名古屋倉庫株式会社があった。資本金十万円。もともと同社は、古屋停車場ちかくの泥江町(ひじえちょう)から堀川沿いの水主町に移ったので利用者が多くことに日露戦争後の好況期には、さばききれぬほどの貨物が押し寄せた。

このため、産業界から新たに大規模な倉庫の設立を願う声が起こり、同三十年五月、資本金百万円の東海倉庫株式会社が設立される運びとなった。

新会社は三つの銀行、つまり愛知(土着派)、名古屋(近在派)、明治(外様派)によって共同経営され、従来の名古屋倉庫は発展的に解消して、その中に吸収される予定になっていた。

これによって、従来とかく対立しがちであった三銀行の融和が図られ、互いに協調する体制ができたかに見えた。

ところが、世の中そんなに甘くない。土壇場で重役数の配分をめぐって、滝系の名古屋銀行と奥田系の明治銀行が衝突し、両社とも譲り合わなかったのである。

それならと滝系は、あくまで当初の計画を貫くことにした。発起人には滝兵右衛門、森本善七、原田勘七郎ら八人。払込資本金十二万五千円。倉庫を掘り川沿いの天王崎町に建設し、四十年五月に開業した。

堀川から敷地内へT字型の私設運河をつくって、ハシケの出入りや貨物積み下ろしの便をよくするなど、名古屋倉庫への対抗心むき出し。意欲的な経営を始めた。

これは、奥田系企業に対する滝系の初めての公然とした挑戦であった。



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