モノづくり王国物語


第六章 近代都市への陣痛 (1)

 

一、インフラの戦い

 

夜のとばりに包まれかけた名古屋の繁華街。その一角が突然パッと明るくなり、いっせいに拍手と歓声がわき起こった。明治二十二年(一八八九)十二月十五日、本町や玉屋町、門前町など約百二十戸の店や家々に電灯が点灯されたのだ。

 東京の虎ノ門にわが国初の電灯がともされてから、遅れること十一年余、名古屋電燈が中部地方で初めての送電を開始し、営業を始めた輝ける日≠ナあった。

 ちなみに、ガスの方は明治四十年十月二十五日に東邦瓦斯がガス灯に初点火したから、このときから十八年後になる。

それはさておき、送電を始めた当初は日没から三時間だけしか点灯されなかったため、「三時間灯」と呼ばれた。電球は会社から有料で貸し与えられたもので、うっかり割ろうものなら、目の玉が飛び出るほどの賠償金を払わねばならなかった。

電気を宣伝する当時の広告が愉快だ。

 いわく――「白熱電灯は灯光実に美麗なり」「いかに燃えやすき品物に接するも、火の移ることなく、失火の憂いなし」「風のためにちらつき、あるいは消えること決してなし」「一本のマッチをも要せず、幾多の灯火といえども一度に点火し、あるいは消すこと自由自在なり」

 これを読むと、明らかにそれまでの行灯やロウソクを意識して宣伝したか分かる。

また、送電の予約注文を受けるときの広告文が時代離れ≠オている。すべて候文で、要約すると「需要の多少によって、道路に立てる電柱の数や、埋める銅線の量も違ってくる。したがって、送電を希望するなら早めに申し込め」といったあんばい。

「士族の商法」、「サムライ会社」の性格丸出しである。これは、会社誕生のさいのいきさつを知れば、なるほどと合点していただけよう。

 維新後の旧武士階級の生活はきびしく、もとの禄高に換わる金禄公債を下付されても、金額ははるかに及ばず、不満は募る一方であった。

 その象徴がご承知の西南戦争。あわてた政府は、全国各府県に合計百万円の産業資金を下付することを決め、旧名古屋藩士卒には、そのうちの十万円が割り当てられることになった。が、問題はそれからだった。



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