モノづくり王国物語


第五章 新産業ぞくぞくと (1)

一、中京財界の法王

 

明治新政府による「殖産興業」のスローガンに乗って、この中部地方でも銀行などの金融制度が整備され、紡績、機械、鉄道、電力、ガス、陶磁器、商業――等々、さまざまな分野で近代産業の芽が出始めた。

この旗振り、先導役を演じたのが「名古屋の渋澤栄一」こと奥田正香である。事実、

奥田は尾張紡績、名古屋倉庫、明治銀行、名古屋電力、福寿生命保険、日本車両製造、名古屋瓦斯などの設立に参画。「この地方に奥田の息のかからぬ企業はない」とまでいわれた。

 また、米商会所頭取、名古屋株式取引所理事長、名古屋商業会議所会頭などの公職を歴任した。したがって、彼の足跡をたどれば揺籃(ようらん)期の中京財界史をなぞることにもなろう

奥田は謙之助ともいい、清須越しの土着派でもなく、滝兵右衛門や神野金之助のような近在派でもなく、旧藩士の新興外様派といっていい存在であった。

 弘化四年(一八四七)三月、鍋屋上野村(現・名古屋市千種区鍋屋上野町あたり)の和田氏に生まれ、のちに尾張藩士奥田主馬に引き取られた。明敏な性格で学問好き。たまたま奥田邸で開かれた詩文の会で知り合った勤王派の秀才、丹羽(にわ)(けん)に心酔して兄事した。

 丹羽賢はご存知、幕末にあの紅葉屋斬り込みで名を馳せた金鉄組の一員。才気煥発、維新後に三重権令となった。丹羽も奥田を可愛がり、慶応年間には江戸の情勢を探るため、奥田をニセ僧侶に仕立てて、芝増上寺に潜入させた。

 また、丹羽の推挙によって奥田は明治元年、東海信濃路の諸藩を勤王方に引き入れるため、その遊説隊の一員となった。だが人間の運命、どういうきっかけで変転するか分からない。奥田はこの道すがら、ある旅篭で横浜帰りの行商人から聞いた生糸貿易の生き馬の目を抜く痛快さ、武士の世界にない自由闊達さに惹かれた。

(よし、おれは大商人になってやる)

 心に誓った奥田は、その後明治三年に名古屋県大属などの役人生活を送ったあと決然、味噌たまり製造業を始めるのである。 



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