モノづくり王国物語


第四章 幕末から明治へ (1)

かつてのベストセラー『昭和史』の著者、半藤一利は、つづく『幕末史』の中で、いみじくも「一八六八年の新政権樹立をだれもが立派そうに明治維新といっているが、実は薩長史観≠ノよって都合よく書かれた暴力革命に過ぎない」と喝破している。

 ことほどさように、藩内の重臣ら十四名を処刑してまで藩論を勤王倒幕に統一し、

江戸までの諸藩を恭順させて、薩長軍進撃の道を開いたのは、だれあろう最後の尾張藩主%ソ川慶勝であった。

 歴史に「もし」は禁物だが、あのとき天下の御三家尾張藩が幕府方に就き、新政府軍と戦っていたら、日本はいったいどうなっていただろうか。

清国の例を見るまでもなく、内乱に乗じた先進諸国によって散々に食い荒らされ、植民地化されていたかも知れない。そして名古屋は間違いなく、焼け野原となっていたであろう。

このほかにも慶勝は、第一次長州征討の総督を務めたさい、幕府側の猛反発を受けながらも、西郷隆盛と謀って戦闘を避けたり、国内の内戦を避けるため公武合体を陰で推進するなど、その黒子役に徹した働きは、決して幕末の四賢候(春嶽、崇城、容堂、斉彬)に勝るとも劣らぬものであった。

 けれども、そうした尾張藩の功績に対する新政府の処遇は、はたしてどうであったか。いっとき慶勝を議定に、田宮如雲ら数人を参与に取り立てただけ。その後はまるで無視≠キるありさまであった。まさに薩長史観そのものである。

 目を転じて、こうした動乱期の領民、わけても商人たちの動きはどうであったか。

 明治二年六月、藩主(よし)(のり)による版籍奉還を機に、長らく調達金の圧迫から解放されると期待した旧御用達商人たちの思惑は完全にはずれ、翌三年には藩の会計局から関戸、伊藤両家に金一万六千両ずつ、内田家へ八千両など、各家へ調達金が課せられたという。(『尾張藩漫筆』)

 それどころか、同六年に新政府が定めた藩債の返済方法についても、五十ヵ年賦無利子といった、まるで「踏み倒し」にちかいものであった。

 加えて、従来あったさまざまの特権はなくなり、倒産に追い込まれる商店も現れる始末。いよいよ実力をもってきびしい商戦を勝ち抜く時代が到来したのである。



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