モノづくり王国物語


第三章 特権商人の変遷 (1)

一、ギブ・アンド・テーク

 

 さて、前回まで主として名古屋の碁盤割で営業する特権商人について触れてきた。では、その特権の内容とは、どんなものであったか、時代を経てどう変っていったか。興味を持たれる方も多いであろう。

 慶長(一五九六〜一六一五)の中ごろからつづいた清須越しによって、徐々に形つくられた名古屋商人。そのほとんどは、清須やその他の地において商売の経験は多少あったとはいえ、まったく新しい土地で、なじみの客はほとんどなく、苦しいスタートを切ることになった。

 そうした条件下で他を圧し、一頭地を抜こうとすれば、ときの権力者としっかり手をにぎり、巧みに立ち回った一部の者に限られよう。

 また、藩としても誕生したばかりの市場を保護し、援助を与えて領内の繁栄を図るのは、これまた当然の理であり、そこに特権商人が生まれる余地があった。

 特権商人として、まず挙げられるのは、「()扶助(ふじょ)の町人」と呼ばれる、つぎの十二家である。

 上七間町の紺屋・小坂井新左衛門、常磐町の時計師・津田助左衛門、両替町の両替屋・平田新六、同じく平田惣助、本町の革屋・市左衛門、富田町の鍛冶職・政常佐助、下七間町の師・小左衛門、戸田町の鍛冶職・寿命彦八、関鍛治屋町の鍛冶職・信高三之丞、常磐町の塗師・伝右衛門、上畠町の鷹指懸師・左衛門、八百屋町の象嵌師・清次郎

 これら十二家には、三家衆の伊藤次郎左衛門らが合力米五百石を賜ったように、それぞれに藩から一定額の「扶助」つまり給与が与えられたのである。

 例えば、津田助左衛門は切米二十石と五人扶持、小左衛門は十五人扶持、寿命彦八は十人扶持というように。

 特権の第二は、藩主への謁見、帯刀の許可などの栄誉を与えられることであった。

 そして第三は、営業の独占が許されたこと。時計師の津田家が農鍛冶、船鍛冶の支配権を、鍋屋の水野家が鋳物生産および販売にかかわる権利を掌握したことなど、典型的な例であろう。



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