モノづくり王国物語


第二章 名古屋商人の誕生 (1)

  一、清須越し

 

 名古屋城の築城が慶長十五年(一六一〇)から始まり、その後四年ほどの間に清須の町ぐるみ集団移住が行われた。武家屋敷をはじめ神社仏閣や町家、橋から門まで名前もそのまま、名古屋台地を埋めていった。

 城を北端として、南に逆三角形に展開し城郭の南側の部分を碁盤割の町屋とした。そして、防備上重要な街道筋に寺院を配置し、その周囲に足軽などの下級武士の屋敷を置いて、「砦」の役割をさせた。

 これまで、この名古屋遷府の主な理由として、清須が町のど真ん中を五条川が流れる低湿地帯で、水攻めに弱い欠点があるためといわれてきた。しかし、最近の研究によると、濃尾平野の地盤が大地震によって液状化しやすく、危険なことが経験的に分かっていたため移住した、という学説が有力になっている。

 愛知県立旭丘高校の服部俊之教頭(地学)によると、約二十年かけて県内の四十ヵ所以上の地震痕跡を確認した結果、四世紀ごろと七世紀後半、十六世紀末(一五八六年の天正地震)に大地震があったことが分かった。

 この天正地震によって清須城下が烈しく液状化し、多くの被害が出たことを知った家康が、城下町を高台の名古屋へ移す決断を下したのではないかという。(平成二十六年五月十五日付中部経済新聞)

 それはともなく、移住した者の中には、駿河越しや他国の商人も若干いたが、清須の商人はこぞって移住し、その中からやがて藩の御用商人となる豪商が現れた。

 町屋の中心となったのは本町であった。この町には御用商人として藩政に寄与した者が多く住み、藩の待遇も一段と厚くなったため、しだいに他町の商人とかけ離れた特権と地位を得るようになった。

最終的には、つぎのような十ランクの格付けとなった。

 三家衆・徐地衆・勝手御用達・同次座・勝手御用達格・同次座・町奉行所御用達・同次座・町奉行所御用達格・同次座

 三家衆は、蛯屋(えびや)(ちょう)関戸哲太郎、茶屋町伊藤次郎左衛門、納屋町内田鋼太郎で、御用達の最高位として合力米五百石を賜った。



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