モノづくり王国物語


第十一章 王国の基盤成る (1)

一、日本の生産基地に

 

トヨタ自工が昭和二十五年(一九五五)八月から始まった「朝鮮戦争特需」によって立ち直ったように、日本経済はこのときから戦後の混乱期を脱して、多少の反動不況はあったものの、その後神武景気や岩戸景気といわれる大型好況を謳歌するようになった。

繊維業界ではガチャマン景気、糸ヘン景気に浮かれ、岐阜市の柳ケ瀬が連夜不夜城≠ニなるほどにぎわった。

そして三十年ごろから高度経済成長期に入ると、それまで「点」に過ぎなかった中京地域の重化学工業が「面」にまで広がっていった。

伊勢湾臨海部の四日市では、旧海軍燃料廠の払い下げをきっかけにして、石油化学コンビナートが形成され、名古屋南部では東海製鉄(現・新日鉄住金名古屋製作所)を中心とする鉄鋼関連工場がずらりと建ち並んだ。

この新日鉄は、中部地方唯一の銑鋼一貫製鉄所であり、トヨタ自動車など「モノづくり王国」を支えているともいっても過言であるまい。

こうして、かつては繊維や陶磁器などに特化した「雑貨工業地帯」と呼ばれた当地が、その後のドル・ショックと二度のオイル・ショックからいち早く抜け出し、「日本の生産基地」の地位を築いたのである。

その特徴とされるのは、なによりも自動車を主体とした輸出機械の割合の高さである。昭和五十五年時点で、早くも出荷額の対全国比を見ると、南関東を上回り、人口一人当たり指数で三四六と南関東の三倍ちかくも高くなっている。名古屋港が繁忙するゆえんだ。

 自動車メーカーは、トヨタをはじめとして、三菱自動車(名古屋市、岡崎市)、日産系列の愛知機械(名古屋市)、本田技研(鈴鹿市)、鈴木自動車(浜松市)が立地し、さらにその周辺に膨大な下請部品メーカーが軒を連ねることによって、中京圏はいまや、わが国最大の自動車生産基地となった。

同時に、全世界の自動車の約一〇lを生産する世界的な自動車生産基地ともなったのである。



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