モノづくり王国物語


第一章 そのルーツ (1)

一、英傑の置き土産

 

人生五〇年、全国制覇を目前に無念の死を遂げた織田信長。その力の源泉は、他の武将に先駆けた「兵農分離」と「楽市楽座」による経済力であり、新兵器・鉄砲の見事な駆使であったといえよう。

兵農分離が可能だったのは、ほかでもない。肥沃な濃尾平野の賜物であった。生産力が高く、専業の武士を養うだけの食糧などを存分に確保できたから、最強の軍隊を持つことができたのだ。

また楽市楽座によって商品の生産や流通を盛んにし、豊かな経済力、換言すれば財力、軍資金を手にすることもできた。

 一方、鉄砲はどうか。信長が例の長篠の合戦で火縄銃の三段撃ち戦術を採って武田勝頼の騎馬軍団を撃滅し、天下統一のきっかけをつかんだ史話は、いまや常識となっている。だが、その信長が近江の国友、日野や紀州の根来、和泉の堺のほかに愛知、三重両県下の鋳物師(いもじ)大量の鉄砲つくらせていた事実は、あまり知られていない。

現在でも両県下には、由緒ある鋳物工場が多い。その分布を見ると、愛知県では名古屋、岡崎、碧南、西尾、豊川。三重では桑名、四日市、津、松阪に及ぶ。

そのうち、名古屋の水野太郎左衛門家、碧南の古久根家(現・褐テ久根)、桑名の辻内家(現・辻内鋳物鉄工)などは、数百年の伝統を誇る名門である。

これらの鋳物師は鉄砲ばかりでなく、名刹の梵鐘なども手がけ、しだいに分家、分派していった。そして鍬や鎌、鍋や鎌といった「千軒鍛冶」も鋳物業の中で枢要な座を占め、庶民から親しまれた。

やがて維新以後の工業化時代を迎えると、日用品やミシン、ポンプ、農機具類はむろんのこと、自動織機、工作機から自動車へと徐々にエリアを広げ、今日では航空機や宇宙関連事業へ、その卓越した技術が駆使されている。

ここで思い浮かぶのは、豊田佐吉である。佐吉の織機は、木製人力式から木鉄混製となり、ついには九九l鋳物の自動織機となる。それに伴って発展していったのが、中部地域の鋳物業界であった。



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