怒りの埋蔵金


怒りの埋蔵金.6

話は少々戻ってーー。小平次が佐七に戎講の講元を譲った天保十三年(一八四三)の三月、こんどばかりはさすがの小平次も尾張藩に対して腹の底からの憤り、いや、というよりもむしろ憎悪に近い反感を抱いた。

それまで藩は、小平次の五代目襲名の折に三十両の調達金を課したのを皮切りに、寛政十年(一七九八)の御勝手御用達、文化二年(一八〇五)の七人扶持といった恩典を与えるたびごとに上納金の金額をふやし、それを累計すると今や数十萬両にも及ぶ巨額に達している。

にもかかわらず藩は、まるでそれを意に介せず、今回はまた高齢の小平次を横須賀の代官所まで直々呼び出し、さらに一萬両もの冥加金を押し付けてきたのである。

「真鍋さま。いかな小平次としましても、もはやそのような大金に応じられる財力はこれなく……」

「なにを申すか。前野小平次といえば、菱垣廻船や樽回船を向こうに回して長らく戎講を取り仕切り、かれらを凌駕するほどに導いてきた男。その程度のカネは、痛くも痒くもあるまい」

「と、とんでもございません。大きな利益があっても、同時に大きな損失をこうむるのもこの商売。お武家さま方が考えられるような、ぼろい仕事ではございません」

「と申して、先の大飢饉の折には……」

「それをおっしゃいますな、真鍋さま。飢饉の折のもうけにつきましては、すでに戎講への調達金で相済みとなっておりますれば」

「いやいや。あの折は一萬両をたしか八千両に値切っておるはず」

「値切るなどと。講の連中はあれで精一杯でございましたから。わたし個人に限りましても、それ以上の上納金は」

「できぬと申すか」

「………」

小平次は、黙ってその場に平伏した。藩はどこまでつけ入るつもりか。これでは、みかじめ料を脅し取るやくざと、なんら変わりないではないか。

「そちはだれのお陰で商売をしておるのか、考えたこともあろう」

「それはもう。御三家筆頭、尾張藩のご威光があればこそ」

「ならば、ご恩に報いる方途は存分に承知しておるはず。それができぬとあれば、藩として考えねばならぬのう」

真鍋は、たびたび同じような恫喝をしているのであろう、下手な歌舞伎役者の台詞のような口調で言った。

なにが大代官か。権威を楯に、威張りくさっりゃがって。船乗りなら、せいぜい水夫どまりの男が、世襲による地位に収まり、ろくな才能もないくせに。

「いかように申されても、ない袖は振れませぬ……」

小平次は、老いの一徹とでもいおうか、店の取り潰しも覚悟して、がんとして応じなかった。

 

その夜遅く小平次は、月のないのを幸い跡取り息子の賢吉に提灯を持たせ、同じ東端の佐七の家を訪れた。

「おや、旦那。こんな遅くに。ご連絡があれば、わたしの方から出向きましたのに」

小平次が深夜、こんな形でわざわざ自宅へ訪れることなどついぞなく、愕く佐七に小平次がそっと耳打ちした。

「折り入って佐七さんに承知しておいてもらいたいことがあってな。ふたりきりで話をしたいのじゃ」

「さようですか。では、どうぞこちらへ」

庭伝いの最も奥まった部屋に案内された小平次は、茶菓もいっさい断って厳重な人払いを頼んだ。

「実はな……」

遠くかすかに海の波音が聞こえるばかりの静かな部屋の中で、小平次がおもむろに切り出した。

「講元になったばかりのあんたのところへは、しっかりと上納金の沙汰があったと思うが」

「ええ。実はこれまでにない五千両もの上納を仰せつかりました」

「五千両? やはりそうか」

うなずいた小平次が、その日の真鍋大代官とのやり取りを手短に語った。

「えっ。旦那は上納金をお断りになった?」

さすがに佐七は、びっくりして声を裏返らせた。

「わしはな、ほどほどの上納金なら、いたし方ないと考えておる。ところがどうじゃ、このところの度はずれた()()()具合は

「おっしゃるとおりです。これから先が思いやられます」

「わしらは『板こ一枚下は地獄』の世界、つまり命がけの仕事をしながら御飯(おまんま)をいただいておる。だが、藩のお偉方たちはどうじゃ。二百五十年もつづく泰平の世の中で、代々世襲の家系に胡坐をかいて、ろくに仕事もせず、藩の財政がきびしくなれば、すべてその(つけ)をわしらに回してよこす」

薄暗い行灯の光の中、小平次の表情は定かには分からない。が、その声調には憤りの強さが顕われていた。

「いつまでもそんな連中の言いなりにはなっておれん」

「………」

「わしはな。尾州回船、中でもこの内海船の戎講に絶大な誇りを持って生きてきた。幕府に庇護され、主に武家のための物資を大坂から江戸へ運ぶ菱垣廻船や樽回船の連中とは違って、わしらは町人たちの食糧や日常品、農民たちの肥料などを扱ってきた」

「そうですな。大豆や米、麦などの穀類のほか、塩、鉄、材木、そうめん、畳表。肥料としては(しめ)(かす)、干鰯……」

佐七が一つひとつ、指折り数える。

「常滑船や半田船だって同じことが言える。あのでかくて丈夫な甕や知多晒、傘など運ぶ常滑船や、酢や味醂、酒を運ぶ半田船。このように各地の特産品に目をつけて、江戸や各地の人々に送り届けた。わしらの働きが、どれほど各地の特産品を育て、人々の暮らしを豊かにしてきたことか」

「まったくですね、旦那。そういうことでは、西回り航路の北前船も同じこと。蝦夷地の干魚や塩魚、魚肥、昆布などの海産物や、北陸、東北からの木材や米穀を上方に運び、代わりに上方からは塩や鉄、砂糖、反物などの雑貨を北陸・東北・蝦夷地に運ぶ……」

「さぁ、そこでじゃ」

佐七の上げる品目にいちいちうなずいていた小平次が、これからがきょう言い置きたいことだ、と言わんばかりに居住まいを正し、声を改めた。

「江戸を中心に花開いた化政文化は、元禄期に比べて享楽的で通俗的だという人がおるが、わしはそう思わん。食べ物ひとつ取り上げただけでも、握り寿司や蕎麦、鰻の蒲焼など実に多彩となって、どんなに一般町民たちの暮らしを豊かにしたことだろう。それを支えた酢や味醂などは、みんな尾州回船が運ぶものじゃ」

「酒でも、半田のものは安くてうまいと江戸の町民に歓ばれていますからな」

「佐七さん。わしの回船業の遣り甲斐、生き甲斐はそこじゃった。菱垣回船や樽回船のようなお上の庇護はなくたって、尾州回船、内海船の誇りをかけて、民衆のためにやったるぜ、という心意気、気概を持ってやってきたのだ」

「………」

「それなのに、尾張藩のやり方はどうじゃ。近ごろでは清州越え以来、藩からさまざまな特権を与えられ、ぬくぬくとしてきた御用商人たちと同等、あるいはそれ以上の上納金を出せと言ってきている。こんな馬鹿げたことがあるかい。これでは、わしらの活動も萎えてしまうでないか」

「それで、旦那は今回の上納金をお断りになった?」

「そうじゃ。藩はこれをいいことに、店の取り潰しを企てるかもしれん。そうすれば、数十萬両の借金もチャラになるしな」

「そ、そんな……」

あとの言葉が出ない佐七に、小平次がきっぱりと告げた。

「店を取り潰されても、藩に貸し金を召し上げられても構わん。それが、わしの意地じゃ。それ、子孫に美田を遺さず、というだろう。わしは息子に回船は遺さず。息子はわし同様に、一から出直せばええ」

「………」

「そこで、佐七さんにたっての願いがある」

「願い? どうぞ、どうぞ。わしにできることなら、なんでもおっしゃって下さい」

「佐七さんは、これからの尾州回船、戎講をしょって立つ男。あんたの両肩には、何百人もの船乗りと家族たちの暮らしがかかっておる。いや、それ以上に江戸の町民衆は、やれ奢侈禁止令だ、やれ質素倹約令だと、息苦しい生活を強いられており、安くて品のいい、わしら尾州回船の運ぶ物資をどれほど待ち望んでいることか。佐七さん。あんたは、くれぐれもわしのような短気を起こさず、いつまでも内海船の心意気を持って、こららの人々のために動乱の世を乗り切っていってほしいのじゃ」

「旦那さん……」

佐七は、差し出された小平次の骨ばかりになった手を戸惑いつつも、力いっぱい握り返し、ただうなずくのみであった。 

 

時移って、明治維新後――。内海船や北前船は、のちに国際港となる兵庫津や神奈川を拠点にしていたために生き残り、明治半ばの鉄道網の整備、汽船の登場する時期まで日本列島の庶民生活を支える国内輸送の大動脈として活躍をつづけた。

前野小平次から後事を託された内田佐七は、その後動乱の幕末期も戎講を率いて乗り切り、慶応四年(一八六八)七月、七十九年にわたる生涯を閉じた。しかし、二代目以降の内田家は、持ち船の相つぐ遭難事故や当主の早世によって一時の勢いをなくし、四代目の明治二十年にいたって回船業から完全に撤退した。

この四代目佐七は、それまで蓄えてきた財力と人脈を活かしてバスや鉄道など、こんどは一転、陸上交通の整備に力を入れ、観光地・内海の開発と発展に貢献したのである。

一方、前野家は小平次の上納金拒否以後、取り潰しこそ免れたもの、その後急速に家運が傾き、どういう力が働いたのか、いっさいの資料が失われて、小平次の死去した年月や墓すら定かでない。

ただ内海の寺社には、泉蔵院の総檜づくりの金毘羅堂や宝積(ほうしゃく)(いん)の本堂、高宮神社にある百七十三段の石の階段など、小平次のかつての栄光を偲ばせる奉納物が数多く遺されている。

地元では、「気骨のある小平次のこと。こつこつと蓄えた財宝をみすみす尾張藩に召し上げられてたまるかと、きっとどこかに隠したに違いない」とする埋蔵金伝説が根強く語り継がれている。傾いた家を再興するために、末裔があちこち発掘をしたり、近年も建設機械で掘削する者も現われたりするが、その行方は今も杳として知れない。

(了)

[参考文献]▽斎藤善之「内海船と幕藩制市場の解体」(平成六年、新創社)▽同「海の道、川の道」(平成十五年、山川出版社)▽同「人つくり風土記・愛知=尾州回船・内海船」(平成7年、農山漁村文化協会)▽「南知多町誌」(平成二年、南知多町教育委員会)▽名古屋市史政治編第二(大正四年、名古屋市役所)▽新修名古屋市史第四巻(平成十一年、名古屋市)



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