怒りの埋蔵金

怒りの埋蔵金.1

世界屈指の大消費都市、江戸の暮らしをまかなっていたのは、西国・北国・畿内から生産物が集中する天下の台所大坂であった。また、その大坂から米、味噌、醤油や酒などの食料品のほか、日用雑貨類を大量に海上輸送する役割を担っていたのは、菱垣回船(ひがきかいせん)樽廻船(たるかいせん)であったことは、よく知られるところである。

このほか、伊勢湾と江戸を結ぶ航路として勢州の白子(しろこ)(鈴鹿市)を拠点とする白子回船があり、これらの船はいずれも幕府や紀州藩から優先的に航路を保証され、積荷の専有を認められるなど、手厚い庇護と特権を与えられ、長らく太平洋沿岸海域の流通を独占してきた。

ところが、江戸時代も後期になると、積荷の安さと船足の速さを武器にして、この既成航路に殴り込みをかけ、それまで胡坐(あぐら)をかいてきた回船問屋や、運上金を当てにする幕府に大きな脅威を与えるまでに成長したのが、尾張藩領・知多半島を拠点とする尾州回船(びしゅうかいせん)であった。

濃尾平野から伊勢湾へ向かって牛の角のように突き出たこの知多半島には、いくつもの湾が点在し、一口に尾州回船といっても、その中身はさまざま。上方から移入する良質な大豆や塩を使って醸造する醤油や酢、酒類を江戸へ運ぶ半田船(はんだぶね)や、大野鍛冶といった優れた農具や金物を商う大野船(おおのぶね)もあれば、さらには常滑焼(とこなめやき)や知多(さらし)、傘などを搬送する常滑船や野間(のま)(ぶね)もあるといった具合。その中でも最もめざましい活躍をしたのが、半島南端部の内海を母港とする内海船(うつみぶね)であった。

この内海船は、尾州回船の中では後発組だったが、天明(一七八一―一七八九)の大飢饉のさい、流通の混乱に乗じて一挙に勢力を伸ばし、江戸から下関まで商圏を広げて、北前船(きたまえぶね)と肩を並べる全国回船の仲間入りを果たしたのである。

 

その内海の回船問屋たちでつくる戎講(えびすこう)の講元、五代目前野(まえの)小平次(こへいじ)が、講仲間四十三人全員に緊急の寄り合いを招集したのは、天保十一年(一八四〇)四月三十日のことであった。

「先だって年行司の例会が済んだばかりというのに、こんどは講仲間全員が集まれとは、いったいどういうこっちゃ」

船主たちがそれぞれに小首をかしげ、いぶかしげな表情をしながら三々五々、会場となる東端(ひがしばた)地区にある泉蔵院(せんぞういん)の本堂に集まってくる。

「大塩平八郎の乱に懲りたご公儀が、またなにか取締り強化のお触れでも出されたのやろか」

本堂の中ほどに腰を据えた副講元格の内田佐七(うちださひち)が、八ツ(午後二時ごろ)から始まる会を待つ六、七人に声をかけた。

「ふーむ。それも十分考えられる。だが尾州回船、分けてもわしら内海船の活躍に危機感を募らせる桧垣回船や樽回船の連中が、尾張藩へ圧力をかける企みを凝らしているのかもしれんな」

煙管(きせる)の煙草の灰を苛立たしげにはたきながら、そう応じたのは、三艘の船の持主、中村(なかむら)與惣冶(よそじ)である。

「そーいえば、兵庫のある大店からの内々の知らせによると、大坂の町奉行がわしら内海船の動きを逐一探っているそうな」

「やっぱりそうか」

内田佐七の言葉にうなずいた與惣冶が、したり顔をして語を継いだ。

 「以前は、江戸までの航路を、わが物顔に行き来していた菱垣回船や樽回船が、このところわしら尾州船に押されて、売上げががた減りになっているげな。そうなれば、かれらを庇護してきた幕府への運上金も目減りする」

「そこで慌てたご公儀が、わしらの(あら)を探して圧力をかけようって魂胆か。けんどな、問題は間に立つ尾張さまよ。幕府がいろいろとわしらの邪魔立てをして、売上げの伸びが抑えられ、藩への上納金が減れば、困るのは結局尾張さまってことになるでよ」

「しーっ。佐七さん。壁に耳あり。お声が高い」

二人のやりとりに耳をそばだてていた西端(にしばた)地区の日比(ひび)弥兵衛(やへえ)が口に手を当てた。

 

この戎講は、商売の神、戎さまを祀るというのは建て前。実際は内海の回船問屋たちの相互扶助を図る親睦組合であった。(ねん)行司(ぎょうじ)と呼ばれる数人の幹事役が毎月二十日に定期的な会合を開き、諸国の商人から来る苦情を処理したり、逆に不正行為を働く他国の商人に対して、取引停止の処分を決めたり、他方では江戸の米相場や上方での大豆、塩などの仕入れ値段の情報を交換して、互いに抜け駆けを自粛したりーーと、さまざまな活動をつづけてきた。

講が結成されたのが、天明年間。その後、文化元年(一八〇四)に組織を拡充したさい、正式に戎講と名乗ったというから、かなり歴史は古い。講仲間は内海の中心を流れる内海川を境にして東端村と西端村に分かれ、毎年七月二十日に参会(さんかい)といわれる年次総会を隔年交代で開いていた。

参会では加盟希望者の評議をしたり、神社仏閣への寄進などの重要議題を決めたが、このときには諸国の取引先商人を招き、二日間にわたってドンチャン騒ぎを演じたといわれるから、あるいはこちらの方が主眼だったかもしれない。

 

やがて、海へ出ている連中を除いて、ほぼ全員が寺の本堂にそろったころ、

「おうおう、皆の衆。忙しいところ、ご苦労さん」

奥手の庫裏(くり)の方から姿を現わした講元の前野小平次が、居並ぶ仲間たちをひとわたり見まわして、しわがれ声を発した。海の男一筋に鍛え上げられた五尺七寸(約一七二b)の大柄からだは、赤銅色に潮焼けし、古希を越えてめっきり皴がふえた今も、あたりを威圧する風格がある。

本堂のご本尊、阿弥陀如来像の前にどっかと腰を下ろすと、おもむろに切り出した。

「さて、きょうこうして皆の衆に集まってもらったのは、ほかでもない。実は、きのう大代官の真鍋(まなべ)茂太夫(しげだゆう)さまからお呼び出しがあってな。その折、御勘定奉行からのお達しとして、来月末までに戎講から通常の運上金のほか、一萬両の冥加金を上納するよう命じられたのだ」

「なに、一萬両もの冥加金だと」

あまりの金額に愕然とした一同、互いに顔を見合わせ、息を呑んだ。真っ先に怒りの声を張り上げたのは、副講元格の内田佐七である。

「そんな無体な。いったい、藩はなにを考えておられるんか。ご公儀から航路の安全や、運搬物資の独占を保障されておる菱垣回船や樽回船の連中が、幕府へ運上金を納めるのならいざ知らず、わしら内海回船は藩からこれといった特典を得ているわけでもない。それなのに、一萬両ものご無心とはどういうこっちゃ」

「さぁ、そこよ。わしはこれまで御勝手(おかって)御用達(ごようたし)を命じられてから、個人的に藩へ調達金を用立てておるが、こんどは戎講へ直々のお名指しだ。どうして戎講なのか、それとなく真鍋さまに理由を訊いてみると、こうおっしゃった」

全員、息を詰めて小平次のつぎの言葉を待つ。

「戎講の面々は、ついこの間の天保の大飢饉の折、まだ余裕のある伊勢や備中で米を買い付け、これを江戸で売って大もうけをしておる。危険を冒し、江戸の人々の苦境を救うという努力は認めよう。だが、一艘で一回に百両、二百両もの利益を上げるのは、他人(ひと)の弱みに付け込む悪徳商法とも見られかねず、もうけ過ぎであると」

佐七がなにか言おうとして、口を閉ざした。藩の指摘はまんざら的外れでもなかったからだ。小平次がつづける。

「さらに藩の立場から申せば、伊勢の大湊(おおみなと)でつくっておる内海船は、船足といい堅牢さといい、菱垣回船をはるかに凌ぐものだが、この木材はすべて藩が管轄する木曽山林から伐り出された良質で安価なもの。これをわれらが黙認しておればこそ、今日のお前たちがあるのではないか、と……」

「けっ。確かに米では多少稼ぐことはできた。だが、それだってよ。菱垣回船の手のまわらぬ分をわしらが()けてやり、江戸の窮状を救った面もある。木曽山林の木材の話は屁理屈、こじつけもいいとこだ」

小平次の話を途中でさえぎり、三艘の船の持主、中村與惣冶が赤ら顔をさらに赤くして、金切り声を上げた。

「與惣冶さん。まぁまぁ落ち着け」

と、手を振って制した小平次が、「屁理屈と言えば、大代官さまは、こうもおっしゃたったな」とひと呼吸置いてから、語を継いだ。

「世は黒船の来航以来、異国船打ち払い令が出されるなど喧騒をきわめている。わが藩としても海防に一層の力を注がねばならん。その重要拠点となるのは、知多半島だ。中でも無防備な内海あたりへ沖合いから大筒でも撃ち込まれてみい。ひとたまりもない。海防を強化することは、取りも直さず内海はもちろん、常滑や武豊を含めた尾州回船への脅威を除くことにもなる」

「したがって、その軍資金として取り合えず一萬両を差し出せってわけか」

こんどは内田佐七が、すかさず口をはさむ。

「ま、そう言うこっちゃ。泣く子と地頭にはなんとやら。お上のおっしゃることを、むげに断わることもできんだろう。さ、そこで皆の衆に相談があるんだ」

ひと膝乗り出した小平次が、すでに思案をしてきたのであろう、目の前の茶をひと口すすると、やおら懐から取り出した紙片をちらちら横目で見ながら声を高めた。

「どうだろう。一艘当たり百両を徴集することにしては。今、この戎講には、十一艘の船を持つわしを筆頭に八艘の佐七さん、六艘の弥兵衛さん。それに三艘が與惣冶さんら七人、二艘が十五人、一艘が十四人と、締めて九〇艘の船がある。したがって、一艘百両ずつなら九千両。なお足りぬ一千両のうち五百両は、講の積立金から流用し、残る五百両はわしが負担することにしては」

しーんと静まり返る会場。だれもがなにか言いたげだが、積極的に発言をする者はしない。その中で恐る恐る最初に口を開いたのは、つい一年ほど前に小平次から三百両の融資を受けて二百八十石(約四二d)積みの中古船を買い、戎講入りを認められたばかりの小野甚八(おのじんぱち)であった。

「せっかくの前野の旦那さんのご裁定に、わしごとき新入りの手船(てぶね)(自己船)持ちが、とやかく言うつもりは毛頭ありません。だがよ、大代官さまのおっしゃるとおりの金額を右から左へお納めするのも業腹が立ちますし、それよりも正直に言って、しがない直乗船頭(じかのりせんどう)(一艘持ち船主)のわしらに百両などとは、とてつもなく辛い金額……」

「ふーむ、そうか。そう言われりゃぁ、甚八さんの言い分ももっともじゃな」

小平次は両腕を組み、すっかり考え込んだ。これに対して天井に目をやり、なにか計算ごとでもする素ぶりをしていた日比弥兵衛が、ゆっくりと口を開いた。

「小平次さん。ここは一艘持ちの人々の意見も聞いてやらんといかんでしょう。そこで、さっきの上納金の割り当てだが、一艘当たり八十両ということにすれば、締めて七千二百両。あと八百両を、三艘持ち以上の十人が負担をすることにして、合計八千両を献上することにしてはいかがでしょう」

弥兵衛んおこの提案をうなずきながら聞いていた小平次が、渡りに舟とばかりに言った。

「なるほど。一艘当たりの額を減らして二千両値切るってわけか。そいつはえー考えだ。皆の衆、弥兵衛さんの案に、なにか意見でも……」

これには、だれも異を唱える者がなく、翌日小平次からその旨代官所へ返答することになった。

帰りの道すがら内田佐七は、ふと頭にひらめいた。「待てよ。万事につけて用意周到な小平次さんのこと。ひょっとすると、きょうの筋書きはあらかじめ弥兵衛や甚八とあらかじめ書かれてあったかもしれんな」と。



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