乞食坊主


乞食坊主 (1)

 

 朽ちかけて、いまにも倒れそうな山門。本堂も庫裏も古びた瓦の間から、ぺんぺん草が伸び放題。境内の中はまるで草叢だ。

――聞きしにまさるとは、まさにこのこと。

むっとする草いきれの中で月僊(げっせん)は、「南無……」思わず天を仰いだ。澄み切った青空に、トンビが一羽、そんな月僊を小馬鹿にしたように、くるりと輪を描いた。

 本堂に入って、月僊はさらに愕いた。床を踏み外しそうになりながら中を覗きまわったが、どこにも本尊らしき仏像が見当たらぬ。いくら貧乏寺でも、本尊のない寺なんて聞いたことがない。

「よいか、月僊。(じゃく)照寺(しょうじ)はのう。檀家がほとんどない荒れ寺じゃ。それでもお主、かまわぬと申すのじゃな」

 智恩院の第五十七代山主、(じょう)(げん)大僧正からそう念押しをされたさい、月僊は「望むところでございます」と大見得をきった。かねてから山主には、なろうことなら都ちかくにある滅罪(めつざい)のない、つまり檀家が少なく気楽に過ごせる寺の住職になりたい旨申し出てあったからである。お陰で金襴の法衣を賜ったのだったが……。

 ――それにしても、ひどい。

月僊は、その場にへたり込みそうになった。が、そこは根が負けず嫌いな男。逆にむらむらっと闘志がわいてきた。

「見ておれ。この寺、みごと再建してみせようじゃないか」

勢いよく立ち上がると、月僊は空を舞うトンビをにらみつけ、大声を張り上げた。

 それから二日後――。なんとか庫裏の寝間と(くりや)だけは繕い、かゆの朝餉をすませて一服しているところへ、二人の男が尋ねてきた。ひとりは伊勢古市(ふるいち)(くるわ)の者、もうひとりは芝居小屋の持ち主であった。

荒れ果てた寺はともかく、髪も髭も伸び放題、乞食坊主同然の月僊を見て、二人は一瞬たじろいだあと、恐る恐る訊ねた。

「そちらさまは、こんど来られたご住職で?」

「さよう」

「山田奉行所はご了承済みで?」

「むろんのこと。月僊と申す」

「ははぁ、さようで。……では申し上げます」

 月僊の名を聞き、二人はこもごもつぎのように語った。

郭も芝居小屋も寂照寺の敷地内にあり、本来なら地代を払わねばならないのだが、最近数代にわたる住職の行状すこぶるよろしからず、地代をはるかに上回る五百両ものカネを融通してある。利息の引当てなど考えると、今後当分の間はびた一文支払いできぬので、さよう心得ていてほしい、と。

「な、なんと。檀家がないばかりか、五百両もの借金とな」

 愕然とする月僊を横目で見て、二人はそそくさと引き上げて行った。

 ――そうとなれば、いよいよ腹をくくらねばならぬ。 

 月僊は翌日旅の支度を整え、智恩院へ向かった。貞現大僧正に会って入山の礼を述べるとともに、気のきいた所化(しょけ)(寺の修行僧)を一人もらいうけようという算段である。

「寺を再建する費用を賄うため、お主が絵を描き、それを売り歩く僧がほしいとな。ふーむ、よい考えじゃ。了周(りょうしゅう)なら、お主より一回り下の二十二歳。元気もよいし、商売の才覚もありそうじゃ。よかろう、つれて行け」

 大僧正は、快く承諾してくれた。

 さっそく了周を伴って寂照寺に帰った月僊は、食事の間も寝る間も惜しんで、せっせと絵を描きつづけた。釈迦や観音、達磨や恵比寿、牛や虎やら梅に竹……さまざまな絵が行李いっぱいにたまると、了周を呼んで命じた。

「よいか。これを古市の旅篭や遊郭へ持って行って、売ってまいれ」

「古市の旅篭や遊郭で?」

「そうじゃ。あそこは全国から銭を持った連中がたくさん集まって来ておる」

「で、一枚いかほどで?」

「一分と言いたいところだが、初売り出しにつき一枚三百文としておこう。具眼の人物なら一分どころか、一両でも買うはず」

「へぇぇ、一両でも?」

 半身半疑ながら了周は、こうして毎日古市へ出かけて月僊の絵を売り歩くこととなった。

「ほほう。あの荒れ寺の和尚がこんな絵を描くのか」

 月僊の絵は、しだいに評判を呼び、中には大阪の商人が「酒に酔って十枚も買って戻ったところ、引っ張りダコで伊勢参りの旅費が浮いてしまった」などという話も伝わって、月僊の人気は日増しに高くなっていった。

 それもそのはず、京や大阪など畿内ではすでに月僊の能筆は知れわたっていたのである。

 

月僊は、元文六年(一七四一)一月、名古屋城下・小桜町の味噌商、丹家七左衛門の二男として生まれ、七歳のとき、関通上人の円輪寺に入って薙髪(ちはつ)した。絵がなによりも好きだった月僊は、寺で習字を習っても余った墨で絵を描いたり、経を習うより絵に熱中した。手をやいた和尚は、絵筆を取ることを厳禁した。

 ところが月僊、みんなが寝静まった夜中にこっそり起き出して絵を描き、庫裏の縁の下に隠れてつづきを描く始末。根負けした和尚は、とうとうこれを許したという。まるで子どものころの雪舟そのままだった。

 十六歳になって江戸に下り、増上寺の学寮へ入る。そのころの山主は、伊勢国度会郡出身の妙誉定月(じょうげつ)大僧正。画僧としても名を成した人だったので、たちまち月僊は側近の一人に抜擢され、その一字をもらって一時「月仙」と号した(もともとの名は元端(げんたん)。のちに月僊)。

 そればかりか、定月の奨めで本格的に絵を学ぶため、第十二代雪舟を名乗る桜井雪館(せっかん)に入門して、雪舟の遺風を体得したほか、写生画の円山応挙、池大雅にも師事したり、俳画の蕪村とも親しく交わったという。

 このように月僊は流派にとらわれることなく、画業を学んだが、あるとき司馬江漢と出会い、洋画・油彩画を描くと聞くや、盛んにもてなして画法の教えを乞おうとした。が、ていよく逃げられ、ご馳走だけ食い逃げされたという逸話も残っている。

こうして仏門、画業ともに修業を重ねた月僊は、二十四歳になった春、京都へ上り、本山智恩院の役僧になったのである。



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