わたくしの夫、
そのころ、わが家では年老いた舅夫婦が病に伏せがちで家計のやりくりが苦しく、役料が百十五石から百五十石に上がると耳にしまして、正直ほっとしたものでございます。ところが、そのご沙汰を受けた日の夜、祝いの膳を前にして夫は喜ぶどころか、顔をこわばらせて、こう申したのでございます。
「よいか、妙。藩の財政きわめてきびしい折に、加増になるとは、まことにもって心苦しい。と言うて、殿の格別のご意向とあれば、ありがたくお受けせねばなるまい。だがのう。こたびは、よほど腹を据えて当たればならぬ役目なのじゃ」
ふだんはついぞお務めのことなど口にしたことのない夫ですので、わたくしは身を堅くして、つぎの言葉を待ちました。
「川並奉行と言うのは、木曽の木材を木曽川で運び、留木の回収をとどこおりなく行うのが主な役務。ま、それはそれとして、問題なのは兼務となる北方代官の方じゃ」
「北方といいますと、美濃の南西部を含めた尾張藩の北部をつかさどる?」
「さよう。今回の殿のご改革によって、北方代官はこれまでの役目に加えて、水利や治水工事の責任も負うことになってな」
「治水? まぁ、それは……」
わたくしは思わず息を呑みました。と申しますのは、そのころ濃尾平野を流れる木曽、長良、揖斐の木曽三川とその支流の右岸一帯は、お城のある左岸にくらべて低く堤防が築かれ、水害と言えば、決まってその地域に限られておりました。言葉を替えて言いますと、名古屋の城下町を洪水から守るために、お城側はすべて「御囲堤」と呼ばれる高く堅固な堤防が築かれていたのでございます。
このため対岸の人々、分けても三つの大きな川に囲まれた地域の方々は一生、水との闘いに明け暮れたと言っても過言ではありません。
夫は愕くわたくしに眼をやり、苦笑しながら訊ねました。
「妙。お主、ひょっと小田井人足という言葉を存じておるか」
「小田井人足? 旦那さまが以前、庄内代官をされている折に、ちらと耳にした記憶はございますが……」
「おおそうか。小田井というのはな、名古屋の北部を流れる庄内川が左へ大きく曲がる右岸にある村でのう。庄内川が出水するたび、その村の人たちが人足として駆り出され、左岸堤防の補強工事をさせられる」
「まぁ。自分たちを守る堤防がありながら、みすみす反対側の堤防の補強をさせられるなんて」
呆れ返るわたくし。夫も眉をひそめてつづけました。
「そうなのじゃ。しっかりと工事をすればするほど、自分たちの家屋や田畑が危うくなる。だから、働くふりをして適当に手抜きをする。そういう譬えをいう言葉なのじゃ」
このように泣き寝入りを強いられるこの地域の方々は、やむをえず洪水に備えて周囲を丸く土手で囲った「輪中」をつくって自衛をしているのです。けれども、決して十分なものでなく、これまで洪水に呑み込まれた災害は、それこそきりがなかったと申します。水との闘い。それがこの地方の宿命みたいに言われているのでございます。そんな厄介な仕事が夫の身に降りかかってこようとは……。
「妙。今から五十年ほど前になる宝暦の治水工事のことは、むろん存じておろうのう?」
夫は、このさい新しい役目のことをわたくしによく知ってもらっておこう、と考えたのでしょうね。この夜は珍しく饒舌でございました。
「ええ、それはもう。こういっては差し障りもございましょうが、幕府が薩摩藩の財力を削ぐため、それまで網の眼のように入り組んで、水害の絶えなかった木曽三川の流れを分流させる大工事を薩摩藩に命じて完成させた……」
「そうじゃ。そのため、薩摩藩は八十人に上る犠牲者と莫大な借金を余儀なくされた。お陰で、以後水害は目に見えて減った。しかしのう。その半面、工事によってつくられた大榑川洗堰のために長良川の水位が上がり、支流の境川に逆流して、美濃・柳津村の一帯は、しばしば濁流に呑み込まれることになった」
「まぁ、世の中うまくいかぬものでございますこと」
「困った住民たちは再三、逆流を防ぐ堤防をつくるよう代官所に訴え出た。しかし、代官は『そんな堤を設けたら、上流はいったいどうなる。遮られた水が押し寄せてくることになるではないか。おのれたちがよければ、他人はどうなってもいい。その根性が許せぬ』とばかり、訴えをはねつけた」
「で、柳津村の方々はどうされたのですか」
「困り果てて、ついに自衛手段に出た」
「自衛手段といいますと?」
「畑に堆肥を入れるという名目で畑と畑の間を埋め、こっそりと高く土盛りをして洪水を防ごうとしたのだ。これが畑繋堤といわれる所以じゃ。ところが、そんなやわな堤防は、すぐ洪水に流されるし、上流の人たちの訴えで代官所が検分をして、みんな取り払われてしまった。そして、今から二十年ほど前になる天明四年(一七八四)のこと。とうとう柳津などの村々でつくる松枝輪中代表の奥村元右衛門ら四人が代官所へ強訴したのじゃ」
「その話、わたしも耳にしたことがございます。なんでも四人は『お上を懼れぬ不届者』と捕えられ、のちに全員が獄死したとか」
「そのとおり。いやはや。なんともいたましい事件と言わねばならん」
夫はそう言って、大きくため息をつきました。
その後、夫はお城の東南部にある西新町の拝領屋敷から葉栗郡北方村の陣屋に単身詰めることになったのでございます。