春姫さま


春姫さま.1

 

 来る平成二十二年は、徳川家康公の命によって名古屋城の築城が始められた慶長十五年(一六一〇)の「名古屋開府」から数えて四百年――。これを記念して地元の方々が焼失した本丸御殿の復元計画を進めておられるとか。その昔、初代尾張藩藩主の徳川義直(よしなお)さまのもとにお輿(こし)入れになった(はる)(ひめ)さまに随伴して名古屋へまいり、姫の年寄として新装成った御殿で身のまわりのお世話をした、わたくし(くま)()紀与(きよ)としましても、とても(よろこ)ばしく、はるか黄泉(よみ)の彼方から首を長くし、心を躍らせて、その日のくるのをお待ちしているしだいでございます。

 春姫さまも、きっと同じ思いをされていることでございましょう。いえ、ことによると、わたしごときよりももっともっと(つよ)く望まれているに違いございません。そのわけは、おいおい申し上げるといたしまして、ご幼少のみぎりからおちかくに侍ってまいりました春姫さまにつきましては、よきにつけ悪しきにつけ、さまざまの思い出がございます。

今回はそのほんの一端を、おめでたいご婚礼の日――十四歳になられた春姫さまが、はるばる紀州和歌山から二歳お年上の義直さまにのもとへお輿(こし)入れになった元和元年(一六一五)四月十二日、いまの暦に直せば五月九日前後――からお話を興させていただきたいと存じます。

      (一)

 その日、伊勢桑名の宿で昼餉(ひるげ)を済ませ、熱田へ向けて船出をしましたときには、すでに初夏を思わせる強い日差しが波間をきらきら輝かせ、軽く汗ばむほどでしたのに、それから二時(ふたとき)(四時間)ちかく。宮の宿に降り立ちましたころには、その陽も絹のような雲におおわれてやわらぎ、さわやかな浜風が頬にとても心地よく感じられました。

 わたくしどもが船酔いを案じました春姫さまは、とふりかえって見ますと、山吹(かさね)のあでやかな小袖(こそで)(すそ)をしなやかな手で抑えられ、この日のためにつくり替えられたのでございましょう、真新しい白木の桟橋(さんばし)に、すっくとお立ちになり、お付きの女中と微笑(ほほえ)みながら何やら語られているご様子。ひとまず胸をなで下ろしたしだいにございます。

 このあと、わたくしども一行は、社家(しゃけ)林助太夫方でしばし休息をとりましたあと、のちに熱田街道と名づけられました道をまっすぐ北へ進み、本町筋へ向かいました。道のあちこちには、お城や民家などの建築資材の残りなのでしょうか。材木や板切れなどが()き寄せられ、子牛ほどの大きな石も転がっておりました。すでに桜の季節も終わり、海が間近のためもあって、沿道の左右には目にも鮮やかな新緑の松並木がつづきます。

 やがて行列が整然と碁盤(ごばん)割りにされた本町筋に入ります40、見るからに新築されたばかりといった大店(おおだな)がずらりと建ち並んでおります。

その間を粛々(しゅくしゅく)と進む行列は、お供の駕籠(かご)五十(ちょう)、馬上の女中四十三人、長持三百(さお)。先駆の中間百人が真紅の布に通した銭一貫文ずつを肩にかけて歩き、そのあとをお茶など道具の列、付き添いの医師や茶道師範の方々、それに家令の大津(おおつ)庄兵(しょうべい)ら付き従う諸士を含めますと、熱田からお城まで延々数十町にも及ぶ、それはそれは豪華(ごうか)絢爛(けんらん)、きらびやかなものでございました。

 清洲(きよす)駿府(すんぷ)から早々と越してきた大勢の商人や使用人たちが店先で平伏するのに混じって、好奇心いっぱいの女性(にょしょう)たちが、ときおり上目づかいに行列を見ては、しきりに感嘆の声を上げておりました。

「さすが紀州のお姫さま。すごい数のお嫁入り道具ね」「見て見て。嫁資(かし)(持参金)もけた外れよ」

 そのような声が駕籠(かご)に揺られるわたしどもの耳に入るたび、何やらうれしいやら、誇らしいやらの気分にひたったものでございます。 

 やがて前方に雌雄の金の(しゃち)が西日に燦然(さんぜん)と輝き、白壁のまばゆい名古屋城が目に迫ってまいりました。

――まぁ、なんと豪壮な……。

 思わず息をのみ、感歎の声を上げたのは、そう、こんどはわたしどもの方でございました。

 すでに夕闇が忍び寄っておりましたが、堀を渡り、(えのき)多門(正門)をくぐって、西之丸に入るとすぐに、(かさね)破風(はふ)のついた未申(ひつじさる)(西南)(やぐら)が目に入ってまいりました。駕籠の窓の御簾(みす)を開き、それを見上げて(おどろ)きました。上層の窓から手をかざして行列をながめ、はしゃいでいるご様子の(おきな)(おうな)二つの人影が見えたのでございます。

 のちにうかがいますと、これは駿河で手塩にかけたわが子、義直(そのころは義利)公の花嫁のお輿入れをこの目で見んものと、前日から名古屋へ来ておられた家康公と、母君の(かめ)さまであったそうなにございます。

 やがて行列は、表二之門を経て本丸御殿の玄関に到着しました。駕籠から降り、ほっとする間もなく御殿のたたずまいを見まわして、思わず息をのみました。さすがは二条城二之丸御殿と並んで慶長時代書院づくりの双璧(そうへき)とたたえられる本丸御殿。武士(もののふ)の猛々しさを(あら)わにしつつも、高い品格と繊細さとを合わせ持つその壮麗(そうれい)な美しさに、圧倒されたのでございます。

そして、真新しい(ひのき)の匂い立つ唐破風(からはふ)玄関の上之間には、なんと義直さまが直々お出迎えになっておられるではございませんか。腰元に手を引かれ、静々とお入りになる春姫さまの姿を見られるやいなや、義直さまは、「おお、春姫か。遠路ようまいられた。さぞ、お疲れであろう」と優しい言葉をおかけになったのでございます。

 文武両道に秀でられたお方との評判どおり、義直さまは背が高く、がっちりとしたお身体から発せられる声は、凛としてたくましく、金地の壁や(ふすま)、杉戸のすべてに描かれた猛虎と(ひょう)さえも、怖気(おじけ)づくように感じられました。

 殿がこうして玄関までお出迎えになるのは、父君の神君以外にはない、とても異例のこととか。それだけに義直公のお歓びもさぞかし、と拝察されました。これにたいして春姫さまは、ぽっと頬を紅く染められ、消え入るようなか細いお声で「わざわざのお出迎え、恭悦(きょうえつ)至極(しごく)に存じます」と、おこたえになり、周囲はたちまち微笑ましく、和やかな雰囲気に包まれたのでございます。

 このときの春姫さまのご心中は、いかばかりでございましたでしょう。年寄のわたくしも、それを推測いたしますと、まことに複雑な思いにとらわれます。あ、いえ、と申しまして、このご祝言が決して姫の意に添わぬものとか、

心進まぬものとか、申し上げるわけではございません。

それどころか、ご婚約をされてから七年。(ちまた)ではうとましい破談の(うわさ)さえ口にする者もいたほどですから、姫のお歓びは察するにあまりあるものがございます。

 と申しましても、和歌山を去られる折に姫が詠まれた

   つひにゆく道より(なお)も悲しきは

生きてのうちの別れなりけり

 このお歌には、どこか人生の悲哀と憂愁が漂っているのを感じるのは、わたしだけではございますまい。

 実を申しますと、この本丸御殿をおつくりになったお大名は、春姫さまの父君、浅野幸長(よしなが)さまだったのでございます。義直さまと姫のご婚約が整いましたのは、慶長十三年(一六〇八)でしたから、幸長さまはきっと「これは娘と義直さまとが仲睦(なかむつ)ましく住まう館」とお考えになりながら、造営にひときわお力を入れられたに相違ありません。

 それなのに、そのお父上は姫の晴れ姿も、御殿にお住まいになる姿もご覧になれず、二年前の慶長十八年(一六一三)八月に世を去られております。この間の事情をよくご承知だからこそ義直さまは、わざわざ玄関までお出迎えに出られたのでございましょう。なんと優しく細やかな心配りをなされるお殿さま。わたしどもは、そぞろ胸の詰まる思いをしたものでございます。

幸長さまの父親長政(ながまさ)さま、つまり姫のお(じい)さまは、太閤秀吉さま晩年の五奉行のひとりとして活躍され、太閤さま亡きあとの関ヶ原の役では、東軍に属して武勲(ぶくん)を挙げられました。

 幸長さまご自身も秀吉公に仕え、文禄二年(一五九三)には甲斐十六万石の領主となりますが、関白秀次事件に連座して能登へ流されました。赦免(しゃめん)後の慶長二年(一五九七)に朝鮮再征を命じられ、あの蔚山(ウルサン)の城では明と朝鮮の大軍に包囲されて苦戦をされ、加藤清正公らとともに危うく死地を脱しておられます。

 このためもあってか、石田三成に(はげ)しく反発していた幸長さまは、関ヶ原の役では父君とともに東軍について先手衆を務め、その勲功で和歌山三十七万六千余石を与えられたのでございます。

 そして名古屋築城に当たって、家康公から清正公をはじめ前田利光、黒田長政、福島正則、細川忠興らの西国諸大名とともに工事の助役を命じられ、本丸南側三十間分ほか数ヵ所の築造に当たられたのです。

 ご不幸なことに、この幸長さまには春姫さまと越前藩主のもとへ嫁がれた姉の長光姫(ながみつひめ)という姫君しかお子がなく、後嗣はご遺言により弟の長晟(ながあきら)さまになったのでございます。ですから、春姫さまのご婚礼に当たって、仮親になられたのは、叔父に当たる長晟さまだったのです。

 この長晟さまは、翌年の元和二年に家康公の三女振姫(ふりひめ)さまとのご結婚を控えているのに、姪の婚儀に莫大なお金をかけようとなされました。これを耳にされた春姫さまは大層心を痛められ、あるとき長晟さまに「諸事物入りの折、どうか簡素に」と懇願されたそうにございます。

 すると長晟さまは「春姫。いやしくも大御所の寵愛(ちょうあい)されておるご九男、しかも尾張という御三家筆頭の大藩に輿入れするのじゃ。浅野家の面目にかけて(はじ)となることはできぬ。まして仮親だから金品を惜しんだなどと、言われとうない」とおっしゃられたそうな。

 また、口には出されませんが、末弟と烈しい家督相続争いになったさい、最後には春姫さまの父君幸長さまのご遺言が決め手になったことに、大きな恩義を感じられておられたのではないでしょうか。このため長晟さまは、膨大(ぼうだい)な金銀を調達するため、上方商人や伊勢御師から借金をされて急場をしのいだと噂されております。

 このような事情がありましたから、春姫さまはご婚礼の日にも弾んだお気持にはなれず、その心の底にはきっと何かわびしく、屈折(くっせつ)した思いが潜んでいたのでは、と拝察されるのです。

 あ、わたくし、とても大切なことを言い遅れておりました。実はこの尾張は、春姫さまにとって父祖以来切っても切れぬ深い(えにし)に結ばれた土地だったのでございます。

少々煩雑(はんざつ)になりますが、ま、お聞きあそばせ。

浅野家は土岐源氏の末裔(まつえい)。先にふれました春姫さまの祖父長政さまは、尾張丹羽郡浅野村の又右衛門尉長勝さまの養子となられ、娘の長生院さまを(めと)られました。また長勝さまの養女寧子(ねいこ)さまは、のちの(きたの)政所(まんどころ)。つまり秀吉公の正室となります。

ですから、長政さまと秀吉公とは、相婿(あいむこ)の関係。長政さまは初め信長公に仕えましたが、やがて秀吉公の軍に()せ参じたのも、むべなるかなと申せましょう。

 このように尾張は春姫さまにとって、いわば父祖ゆかりの地ですから、屈折した思いの中にも、どこかほっとされる面もあった、と考えられるのでございます。



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